記憶の雨
ダリルシェイドへ戻って間もなく。
早速入った任務がそのせいで中止になり急遽時間の空いたリオンはヒューゴ邸に戻って休んでいた。
ぼんやりと窓から外を見る。
しとしとと降る雨は、あたりを静寂に導いている。
何をするでもなかったが無人の庭先に、ふいに現れた人影にリオンは頬杖を崩した。
だった。
傘もささずに、ふらついている。
その様子をわずかな間、目で追っていたがやがて彼女は生け垣の向こうに姿を消した。
『こんな雨の中を…どうしたんでしょう?』
不思議と、今そこにあった姿がみえなくなると気になるものだ。
リオンはシャルティエには答えずに立ち上がる。
わざわざ追おうとは思わなかったが、何か落ち着かない。
そんな気分でなんとなく玄関先まで来てしまった。
しかし、やはり外には出ずに、そのまま通り過ぎて食堂へと向かう。
シャルティエはマリアンに会いに行くのだろうと思ったがその途中の廊下の窓から見えた人影に声をあげた。
『坊ちゃん、あそこ』
リオンが足をとめるとちょうど が屋敷の方へむかって来るところだった。
屋内のリオンには気づかず視線は空へむいている。
霧のような雲で満たされていて青味がかった白灰以外は何の色もついていない空。
思わず視線を追ったがやはり何があるというわけでもない。
「おい、何をしている」
リオンは庭へつながるドアのカギをあけて に声をかけた。
はリオンの姿に気づいていつもより大人しめの笑顔とともにすぐにやって来たが、そのまま中に入るのを躊躇したそぶりを見せた。
どれほどの時間ふらついていたのかすっかり濡れそぼっている。
床を濡らしてしまうとでも思っているのだろう。方やまったく気にかけないリオンは「いいから入れ」と声をかけるや腕をひいて中へと招き入れる。
ぱたりと黒い髪から雫が落ちた。
体を覆うはずのマントは腕にまるめて抱きかかえられていて、いつもは見えない細い肩が濡れた白い服の下からなだらかな曲線を描いていた。
「ありがとう」
冷えた外気から暖かな邸内の空気に触れてやや安心したように頬を緩める。
リオンの視線はその腕の中の塊に落ちた。
もぞもぞと動いているそれを確認したシャルティエも尋ねる。
『それ、…どうしたの?』
同時に顔を覗かせたそれは猫だった。
…どうみても大ぶりな…それは紛いも無い成猫。
「……………おい」
子猫ならまだしもそんなものを拾ってくるヤツがいるか!?
思わずつっこみたくなるリオン。
子猫なら子猫で、それで和むつもりもないくせになぜかこのシチュエーションに不満そうな顔(?)をする。
「怪我してるんだよ。治療くらいしてもいいでしょ?」
『その前に、 も着替えた方がいいよ』
「うん、後でね」
かろやかに順番付けをひっくり返した の様子にしょうがない、とリオンは救急箱を探しに行く。
邸内の主導権はリオンにあるので結局、落ち着ける部屋まで率先して連れて行く羽目になった。
「…ブサイクな猫だな」
ついでに怪我の治療などロクにしたことが無い に代わって猫に包帯を当てがうリオン。
何をどうしたのか腿の部分に裂傷ができていた。
骨に異常はなさそうなのでしばらく薬をつけてやれば十分だろう。
「そんなことないよ。濡れて貧相になってるだけで…乾いたらぜったいかわいいって!」
「しかもこんなにでかくて…太りすぎじゃないか?」
野良猫のようなのに一体何を食っているんだ。
素朴な疑問に答える者はいない。
「猫は丸々している方がかわいいよ」
と治療している傍らでその頭をなでる。
猫は随分とおとなしく、差し出された手に安心しているようだった。
雨が降るとまだ肌寒い。
しかし夏を目前に暖炉にはもう火など入っておらず猫も もわずかに震えていた。
治療も終わって手を止めたリオンはそれに気づいて小さく溜め息をつく。
「大体、なぜこんな天気の日にそんなになるまでうろつくんだ」
「いやぁ、はじめはちょ~っとそこらへんを歩いてみようかな、と思ったんだけど…だんだん本格的な散策になっちゃって…」
「それでこの猫もみつけてきた、と?」
「子猫だと拾った、って感じだけどこれだけ大きいと縄張りから拉致してきたような気分だったよ」
そういうことを聞いているのではないのだが。
一応着替えはしたが一度冷えてしまうとなかなか暖まらないものだ。
寒さに顔色が悪いまま猫を抱き上げる。ずいぶん抱きなれているようで の腕の中で猫の方も居心地は悪くなさそうだった。
「はぁ…あったか~い」
耐え兼ねたように抱きしめた。
身を縮めて自分の拳よりも大きな猫の額に頬摺りをするその様がまるでぬいぐるみを抱きしめて幸せそうな少女のようで。
リオンはなぜか赤面と共に視線を逸らした。
それから、ベッドから薄い毛布をはぎとって無造作に の背中にかけると、よほど寒かったのか は心底うれしそうに礼を述べた。
「お前…馬鹿だな…」
「そうかなぁ?でも猫って暖かいし柔らかいし…なんか癒されるよね。
こうぎゅっvってしたい感じ」
「…」
よほど好きなのだろうか。
はっきり言って初めて目にするはしゃぎっぷりだ。
いつもの涼しい笑みはどこへいったやら。
いつにない口調で幸せそうな顔をふりまいているその様こそ…
『何か の方が可愛らしくてぎゅっvってしたい感じじゃないですか?』
「……………………馬鹿なことを言うな………」
リオンの応える声は思い切り低かった。
は幸いというべきか猫に夢中でまったく聞いていない。
「お前、そんなに猫が好きなのか?」
「猫だけじゃなくて動物は大抵好きだよ。」
それは知ってる。獣型はおろか水棲系、爬虫類系関わらずモンスターを見るたびにかっこいいだとか触りたいなどと寸評を漏らしていたくらいだから。
「なんだかこうやって触るのはものすごーく久しぶりで。リオンはどう?」
「好きじゃないな。わざわざ触るほどのものでもないだろう」
言うとなぜかじっとみつめてくる 。
「ウソだ。」
「な、なぜそうなるんだ」
「なんとなく。」
鋭い。
改めて好きと言うほどではないが嫌いと言うほど嫌いでもない。
その微妙なニュアンスを は感じ取ったようだった。
「本当に嫌いな人は顔だけでも嫌いって言うから分かるよ。はい、いいから抱いて抱いて」
「わざわざ触るほどじゃないと言っているだろう!」
嫌がると無理矢理おしつけようとする。リオンがしっかり受け取らないので自然、2人で猫を抱く形になった。
「ほら、あったかいでしょ?」
「…猫の体温は人より高いんだから当たり前だろうが」
少し長めの猫の毛が、指先に柔らかな感触をもたらす。
のマントに包まれていたおかげでもう大分乾いていた。
『猫もあったかいところが好きですよね。気持ちよさそうですけど』
「…こんなふうにぬくもりを与えても、また冷たい寝床に戻るんだぞ。
…逆に酷なんじゃないのか」
腕の中のぬくもりに瞳を伏せる。
のんきに目を細めて喉を鳴らしているその様に自然と言葉は零れ落ちた。
「リオン…」
はっと顔を上げるとどこか心配そうな顔を向ける の姿がある。
他意があったわけではない。けれど心の奥底にあるものを何か見透かされた気がしてリオンは逃げるように視線を逸らした。
「ん、でも…今、感じてる温かさはウソじゃない。忘れないでいられるならそれは幸せな記憶なんじゃないかな」
「猫なんてどうせ覚えてないだろ」
「だったら初めから酷だとか言わないでよ」
ちょっぴりむっとしたような気配が伝わってくる。
リオンははずしていた視線を元に戻して を見た。
「猫だってちゃんと覚えてるよ。人間だってそうでしょう?」
そっと の細い指先がリオンの指に触れる。雨で冷えたせいかひんやりと冷たい感触だった。
「…。お前は僕に冷え冷えした記憶を与えたいのか?」
「あぁ。…リオンの手はあったかいね」
触れられた手が暖かかったならそれなりに想うところもあったろうに、挙げ句、猫とリオンをまとめて抱き込んで一人でぬくぬくとしている様に思わず恥を忘れてつっこむリオン。
『いいじゃないですか。 が冷たいなら坊ちゃんがあっためてあげれば』
くすくすと微笑まし気な声でシャルティエの言葉にも今は動じる理由が無い。
呆れたまま時を過ごせばその冷たさがぬくもりに変わるのにも、大した時間はかからなかった。
柔らかな雨音は当分、止みそうにもない。