乗り物酔い。
三半規管が状況に適応できないことにより身体にさまざまな変調をきたす。
症状としては、
顔色が悪くなる
冷や汗が出る
頭痛が起こる
めまいがする
呼吸が乱れる
その他、悪心、ため息、生あくびも併発されその状態が続くと、突然、嘔吐に至る。
対外的な動きに対して予知ができず無防備な際に起こりうる。
運転する人間が酔わないのは動きに対して予知ができるためである。
通常は体の機能上の問題であるため同じ乗り物に対して何度も乗っているとやがて克服される。
特効薬
は飛行の振動の中、パタムと読んでいた本を閉じた。
無言で廊下に出る。
時々乱気流をつかまえるのかがくりと揺れることがある。
しかしこれで飛行は安定しているのだろう。
クルーたちの姿はいつもどおりというように、どこかのんびりしていた。
「リオーン?」
リオンがいるだろう部屋の前。
コンコンとノックをしても返事が無いので、扉を開ける。
案の定彼は乗り物酔いでベッドに臥せっていた。
「大丈夫?」
と覗き込んでもいつものような反応は返って来ない。
は腕を組んで考え込んだ。
大体、リオンが乗り物酔いなんかするんだろうか?
イクシフォスラーであれだけのパイロットぶりを見せているリオン(ジューダス)が。
今回の旅でも散々船中で読書なんてしているリオンが。
ついでに言うならジューダスはカイルたちと飛行竜に乗り込んだ時も度重なる戦闘に参加しておきながら平然としていたはずだ(健常者でも乗り物上で激し
く動くと酔います)。
これだけ船旅が多い中、嵐の海上でスタンがダウンしていた時など顔色ひとつ変えずに堪え性が無いだの呆れていたくらいであるのに。
…。
残る可能性はといえば。
精神衛生状の問題。
「人の部屋で考え事に没頭するな」
あまりにも黙っているので間に観察されている気にでもなったのだろうか。
間に耐え切れなくなったようにリオンが顔を上げた。
その顔色はいつもよりトーンが落ちて見えた。
「リオン…普段酔わないでしょ」
「だったら何だ」
本人にも何かがいつもと違うことに自覚があるようだ。
とにかく放っておけと意思表示するリオンを無視して
は話を続ける。
「ちょっと気分転換した方がいいよ」
こんな状態でスタンを追い出したくらいだから、具合どころか虫の居所もかなり悪いのだろう。
そういう気分で、ここで鬱に入っているのは思わしくない。
「
…僕は気分が悪いんだ。それなのに外へ出ろとでも言うつもりか?」
再び枕に顔を埋めるようにリオン。
「起きられないほど具合、悪い?」
「あぁ」
「気のせいだって!」
「気のせいで済むか馬鹿者!」
「吐く寸前に、血圧が下がる。だから血圧上げれば吐かなくて済…」
「そんなわけないだろう!!」
うっかり起きかけて、見事に血圧が上がったらしいリオンの顔色は心なし良くなって見える。
…元気じゃないか。
リオンは絶対行かないという気勢だったがそれがむしろ「これなら引っ張り出しても大丈夫」と
に判断させる決定打であったとは気づいていない。
は無言でリオンの服をゆるくつかんだ。
何か勘付いた妙な緊張感が走る一瞬。
彼は
が誘いをかける前に、手もとのシーツに思いきり力を込めてしがみつくことによって拒否の意向を示してみせた。
敵も去るものだ。
しかし、無理矢理ひっぱっていくにもベッドにしがみつかれていては話にならない。
まずは、手を離してもらわないとね。
はやや眉を寄せて、あっさり離れると再び腕を組む。
「いつも酔わない人が酔うのは、睡眠不足とか…体調がよくなかったり…」
精神的に追い込まれていたり。
それが今、一番の原因なんじゃなかろうか。
あえて言わない。
「…だって言うから。リオン顔に出さないし、あんまり無理しちゃだめだよ」
「無理なんて…してない」
とんでもなく説得力が無いのですが。
確かに常日頃体力のペース配分はしているだろう。
しかし、精神的に疲弊すると追い込まれていく感覚も
は知っている。
緊張感や精神が保(も)っている間はいいのだ。
それが切れると…こういうことになる。
神の目を奪還して一時的にせよ気が緩んだせいもあるかもしれない。
その上これから起ることを危惧している憂慮もあるかもしれない。
はその底にあるものを理解しようとしたがいかんせん複雑すぎる。
とりあえず今は持ち直してくれるのが一番だ。
うっかり自分も深みにはまりそうになるところを引き返して、もうそれ以上触れることはやめた。
「だったら!」
ばふりと上体をリオンの上に覆いかぶせる。
一見やけっぱちな行動にリオンが驚いたように振り返った。
スキは逃さず。思いっきり引き起こす。
弱っているリオンの抵抗などものの比ではない。
そのままベッドから引きずり出すことに成功した。
「な、何をする!」
あぁ、叫ぶほど余力があるなら大丈夫。
いきなり引きずり出されて2,3歩よろけたが倒れこむほどひどくはないようだ。
ベッドサイドにおいてあったシャルティエも掴んで、そのまま腕をひっぱって展望デッキまでやって来ると、リオンは後方で低く不満の声を漏らした。
「靴も履かないまま、ここで何をしろと…?」
「どこ見て物言ってる。持ってきてるでしょ」
さすがに裸足では何なのでベッドの下にあったサンダルも持参済みである。
「…」
憮然として、睨み付けるが次の瞬間ふぅ、と溜息をついて視線をはずした。
「部屋にこもってるより風に当たった方がいいよ」
「ここまでひっぱってきてから言うセリフか?」
言うなれば「あたった方がいいよ」というお誘いではなくむしろ「当たれよ」に近い行動だ。
しかもデッキの上は容赦のない強風。
のマントもほとんど垂直になびいている。
しかし長い道のりを部屋まで引き返す気にもなれずリオンは溜息を繰り返した。
「乗り物酔いのときは溜息も頻発するっていうね」
「………これはお前の行動に対して出ているものだからな……?」
呆れてものもいえない一歩手前。
構わず
は乗り物酔いの話をしている。
「有名な民間療法は…梅干?」
「効果のほどは甚だ疑問だろ」
そんなもの。といわんばかりにリオン。
「クエン酸の効果かね。
でもプラシーボ効果で7割が酔わないって言うから、気のせいでも治ればいいんじゃない?」
そんな単純な問題か。
と思うが、否定は出来なかった。「乗り物酔いしやすい人間に薬といって砂糖水を与えたらその7割弱が酔わなかった」という実験結果はリオンも知ってい
る。
要するに世の中の大半の乗り物酔いは「自称」であり「思い込み」なのである。
しかしそれを肯定すると自分の具合の悪さは何なのか、考えなければならなくなる。
「少し濃い目の番茶に生しょうゆを少量入れ、カップ1杯飲む、ていうのも聞いたことがあ…」
「そんな気味の悪いもの飲めるか!!」
放っておくとおもしろがって持ってきかねないので、つっこんでみた。
「タンニンが胃粘膜の働きを調整して嘔吐を防ぐって根拠もきちんとあるんだけど」
「むしろ味を想像しただけで吐きそうだろ、それ…」
「うん。私だったら飲まないね」
「…………じゃあはじめから言うな…」
他人事だからついでにネギも入れてみたらどうだろうと言いかけたが、大分つっこみ疲れているようなのでやめておく。
リオンが何度目か既に判らない溜息を大きくつくと、
の手の中からシャルティエが小さく笑い声を漏らした。
「何だ」
『だって、坊ちゃんすっかり具合よくなったみたいだから』
そう言われると。
立っているのも辛くはないし、悪心ももうしない。
シャルティエに落としていた視線を上げると待っていたような
の笑顔が目に飛び込んでくる。
それが「してやったり」にも見えて思わずリオンは顔を顰めた。
『良かったですね。早く治って』
「こんな治療だったら寝ていたほうがまだマシだ」
『そんなこと言わずに。ほら空中散歩でも楽しみましょうよ。』
時間はたっぷりある、とはいえない。
少しばかりの平和な時間と、終りの刻はともうすぐやってくるだろう。
それでも、
「もう少しだけ、だからな」
たまには悪くない。
風と空を無心に追ってみるのもいいだろう。