鈍色
― その終焉の傍らに ─
「
!?」
ジューダスがそこで見たのは、なかば恐慌状態に陥った
と、寒々しく凍りついた船倉だった。
恐慌といっても、泣き叫んだりなどは決してしていない。
どちらかと言えば心ここに在らずといった感じだ。
が、いずれにせよ普段の彼女からは思いも寄らない状態だった。
海の主の開けた大穴は幾筋も貫かれたかのように、鋭い氷刃でふさがっていた。
船倉内には沈黙が下りていて船が揺れるたびに船外へ逃げ損ねた海水がチャプチャプと微かな音をたてている。
それも氷に触れて、まるで切り裂くような氷海の冷たさで階段に半ば倒れこむように身を寄せる
の体温を奪っていた。
小さく震えているのは急激に温度の下がったこの内気のせいかそれとも別のもののせいなのか…
ただ、何かに怯えているのは確かなようだった。
「
…
!おい、しっかりしろ!」
呼びかけながらも真っ青になって震えている体を抱え起こして連れ出す。
船倉からすでに無人になっている後部甲板に出るとうららかな日差しに暖められた外気がまるで別世界のように体を包んだ。
「
、どうした。しっかりしろ」
「リ…オン…」
もう一度呼びかけると微かに瞳に光が戻ってちいさく彼の名前を呼んだ。
「そうだ、僕だ。何があった?」
肯定すると、我に返ったように大きく息をつく。視線が意志を宿して無人の通路をさまよった。
「
」
「大…丈夫、ちょっと消耗した…だけ」
「何があった」
「何も…」
「何も無いことないだろう!?」
思わず大声で聞き返してしまう。
疲弊が激しい。
およそ何が起こったか想像もつかなかった。
「晶術で…慣れてないこと、したか…ら…」
晶術と言えば、この間習得したばかりだ。
初級晶術であるものは無難に使い始めてはいるが…それで船倉で起こった事態は何と無く察した。
あの氷柱はおそらくフリーズランサーで作られたものだ。
フリーズランサーはアクアスパイクの上級であるから、アクアスパイクが使える
には理論的には使えないことは無い。
が、到底この時点で使いこなせるレベルのものではないことくらい知っているはずだ。
「無茶なことを…」
言ったきり気を失ってしまった
を抱えてジューダスは再び前方の甲板へと戻って行った。
しかし、それで全てが説明されたわけではない。
むしろつじつまはあわなかった。
は何かに怯えているようだった。
今、聞けば震えはあの寒さのせいだと答えるだろう。
『奇跡の力』で沈みかけた船はフィッツガルドの北東へと緊急停泊した。
間を置いてしまった今はもう、その根本的な部分は聞けそうも無いようにも思える。
「シャル、どう思う?」
は規模が違えど同じく力を使い果たしたリアラと一緒にリーネのリリス=エルロンの家で休ませている。
ジューダスは辺りに誰もいないことを確認して呟くようにその問いを持ちかけた。
『
の事ですか?…怯えてましたね』
逐次、マスターの心情の動向を追っているシャルティエは多くを飾らない言葉でも言わんとしていることを理解して応じてくれる。
「何に」
『…僕も考えていたんですけど…あの時、坊ちゃんのこと「リオン」て呼びませんでした?』
「それがどうかしたか?」
ほとんど意識が空を漂っているような状態だったから、仕方のないことだ。
それを咎めようとは思わなかった。
『もしかしたら彼女は……いえ…』
酷くためらったようにそれきり沈黙してしまう。
それが不自然に思えて先を促すとそれでもシャルティエは、おずおずと小さく呟いた。
『あの時のこと…思い出したのかも』
「あの時?」
『…』
それをはっきり伝えるのは無理だと言うようにシャルティエは困惑した間を返してから遠まわしに切り出した。
彼にしか聞こえないその声に伺うような韻を含ませて。
『坊ちゃんは…『あの時』、最後に何を覚えてました?』
それがあまりにも述べ難いことを口にしているようで、少し考えれば何を言っているのかは理解できた。
海底洞窟での話だ。
彼女と自分の共通の出来事で、今の話に関わりがありそうなことといったらむしろ他に思い当たらない。
ジューダスはその表現については深く追求せずに、少し考えてから聞かれたことだけを答えた。
「…
の手が、冷たかった。」
それだけ。それだけだ。
ただ確かにそこにいるのだと。
『そうですね。その後、僕もしばらく坊ちゃんたちを見ていました。』
ジューダスから素直に返事があったことに、理解を示したことに少しだけ安堵したようにシャルティエの言葉は滑らかになった。
むしろ、それからは今まで抑えていたものが堰を切ってしまったかのように。
それは未だ「リオン」に死が訪れていなかったからかもしれない。
あるいは
にもマスターの資質があったためにシャルティエの意識も引き摺られてしばらく残っていたのかもしれない。
彼は、彼のマスターと彼女のその後を「視て」いた。
『
は僕も坊ちゃんと
の手元に引き寄せてくれた。でも、水はどんどん上がってきて…』
それはリオンが知ることは無かった彼女の最後の姿。
『あの洞窟も決壊した。攫われたんですよ、一瞬にして。
には多分…あの後の記憶もあるんだ。」
死の記憶。
おそらくそれはほんの数分、もしかしたら数十秒にも満たないだろう。
しかし、それが彼女にどれほどの孤独と恐怖を与えたことか。
押し寄せる水に飲まれたことが記憶にあるならば、
あるいはフラッシュバックを起こしているのかもしれない。
それが、あの船倉で起こっていたのだとしたら────
* * *
ジューダスがリリスの家へ戻ると
は意識を取り戻していた。
カイルとロニは村へ出ていて、ただでさえ広い田舎の家は喧騒とは縁が無い。
穏やかな日差しの窓辺で上体を起こして何事かをじっと考え込んでいた
は、訪れたジューダスに視線をよこしたもののその顔にはいつもの覇気はなかった。意識は戻っても憔悴して見える。
「無茶をしたな。何度目だ?」
いつもなら切り返される言葉にも戻ってきたのは沈黙だけだった。
聞いても答えは知れたものだ。それでもジューダスは問うてみた。
「何があった?船倉で」
「何も…」
「ただ晶術で穴を塞ぐだけでああなるわけがないだろう。お前…」
言いかけて言葉を選ぶジューダス。憶測で物を言って違っていれば通じない話だ。
だからあくまで彼女自身の口から話を聞き出す必要がある。
「いいから言ってみろ。『あの時』、お前は何を見た。」
「…」
「言わなければずっとそのまま怯えることになるぞ。
僕のことはいい。お前が怖れていることを言ってみろ。」
いずれ何らかの心傷があるならば克服するには原因を理解することが一番だ。
とはいえ、きっとわかっている。
既に
は自分で何がどうしてそうなるのか、おそらくそのかなり深いところまで模索して理解しているはずだった。
だから本当は何も知らずに怯えるよりずっとタチが悪い。
葛藤の上のどうしようもないことと言うやつなのだから。
それにもう一度自分から触れさせるのはその場でフラッシュバックも起こしかねず、危険なことだがこのままにはしておけない。
理解したのか
は小さく頷くと短く言葉を発した。
「濁流」
リオンにいつのことを言っているのか伝えるにはその一言だけで十分だった。
やはり、シャルティエの言うとおり彼女の心を抉ってしまったのはあの時の出来事だった。
彼女自身が見ていたもの。
それは折に入って訪れる。
時として、朝には覚えていない夢だったり、何気なく船へと乗り込む為のタラップの上だったり。
それはリオンが意識を手放した後。
正気のまま激流に飲まれる死への記憶。
繋いだはずの手は離してしまった。
いや、離されてしまったというべきか。
いずれにしても、成すすべも無く
はそれを見ていた。
いっそ、その前に意識を手放すか
落盤が起こるかしてくれればよかったのに。
「死」など一度も願ったことの無い彼女だったがその時ばかりは
自らの意志の強さを、あるいは強情さを恨まずにはいられなかった。
それでもここに残ることを選んだのは自分なのだから、後悔はしていない。
けれどそれはそういった意志の部分とは別の場所で起こった出来事だった。
彼らのいた舞台のように頑丈な岩壁は、それ故に最後まで濁流から取り残されていた。
水位の上がるその様は、さながら孤島が津波に侵食されるようで。
じわじわと、しかしすさまじい勢いで追い込むように。
それを、見ていた。
恐怖が無いわけではなかった。
それでもその時、確かに隣にはリオンが居て、
だから、何がどうというわけでもないけれど大丈夫だと感じていたのだ。
しかし「死」という不確定なものへ対する恐怖よりも
一瞬にして訪れる孤独。
それから訪れる終焉の記憶。
あれは水にたゆたう泡を見ながら、なんて美しいものじゃない。
濁流と圧力。
どうしようもない力に押し流されるだけ。
気管に海水が浸入し、異物を吐き出そうとひどく咳き込む。
しかし、酸素を求めるための呼吸は再び海水を引き込んでしまうだけで。
肺が水で満ちる。
手を離してしまった、苦渋と孤独。
どうせそれが刹那なら、
いっそそれより前に、意識を手放せてしまえたら良かったのに----
それなのに。
鮮明に覚えている。
ほんの刹那がまるで、永遠のように。
それでも日常ではさしてパニックを引き起こすほどではない。
根元を理解しているからこそ多少のプレッシャーには耐えられる。
それが、あの船倉での戦闘後、海水の侵入と共に沈みゆくその感触がそのまま再現を引き起こしてしまうのは当然といえば当然と言えた。
「お前は馬鹿だな」
それをわかっていながら1人で船倉へ向かったのだ。
ただでさえ無謀なのに荒治療というにも程がある。
ジューダスはそれだけ言って俯いた頭を一度だけ撫でた。
彼は確かに覚えている。
最後にあったのは隣に彼女が居た記憶だ。
今なら思える。どれほどその事実に救われたことか。
だが、彼女は最後に来てそれとは真逆の状況に突き落とされたのだ。
それをきれいさっぱり忘れろという方が土台無理な話。
ますます項垂れてしまう彼女から当然返答はなく痛々しい沈黙が流れた。
こんな時、心の内で想うだけでどうしようもない。
ジューダスの口からもただ溜め息だけが小さく漏れる。
「わかっているならもう、1人で行くな」
短く告げるとゆっくりと顔を上げる
。
その瞳は怯えとも哀しさともつかないうすぼんやりとした色に彩られていた。
次に僅かに緩んだ頬に湛えられた笑みは、酷く儚いもののように見えた。
それでも、それで彼女が「戻って」来たのも事実。
もう一度眠って、目が覚めればいつもどおりの顔を見せる事だろう。
は再び身を横たえると、そのわずかな眠りの為に再び瞳を閉じた。
まもなくまどろみに落ちたその顔は、先ほどよりほんの僅かばかりに穏やかに感じられた。
あとがき**
船倉で倒れた前後のエピソードです。
思えば、出血のために意識を閉ざしたリオンと違い、無傷の彼女は最後まで意識を保っていたたはず。
その最後に見たもの、の話でした。
ゲーム中ではもう一度海に行くようなことが無いのでさして影響のあることではないのですが…
目が覚めた後が、ブランコのシーンへと繋がります。