まず、家主の名誉のために断っておく。
決して、決して孤児院が不潔だということではないのだ。
確かに裕福とは決して言えないが、その家主であるルーティ・カトレットは、愛する子供達が住むこの家をでき得る限り清潔に保とうと確かに尽力している。
もちろん、子供達の協力も得てのことである。はっきり言ってルーティひとりじゃどうしようもない。ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。
おかげで、廊下はいつもぴかぴか。
本棚の上にほこりが積もって白くなっていることは滅多にないし、台所の三角コーナーでウジを飼うなどという失態は一度たりとも有り得なかった。毎日使って掃除してるし。
そんなふうにして孤児院の環境は、おおむね清潔に保たれていた。
しかし、それでもなお、ヤツらはどこからともなくあらわれるのだ。
ヤツらは黒く、そして素早く動く生き物。
人の手の届きにくい、タンスの後ろや流しの下の開きの中に有る水道管の影等の暗く湿った場所に隠れて、長い触角を揺らめかせながら辺りを伺う。
楕円形が油を塗ったようにテラテラ光る。動作の擬音はカサカサ。
屋外でツッタカターと走っていくのを目撃すると、なんとなく微妙な気持ちになる。
ならない?
それはともかく、明るい場所に姿をあらわすだけで、大抵の女子をあっというまにイヤンな恐慌状態に陥れるという、ある意味最強の虫である。
頭がもげても数日間は生き続け、その死因は餓死という驚異的な生命力の持ち主。
ヤツは、その名を、ゴキブリと言った。
黒い悪魔
「うっきゃああああああぁー!」
デュナミス孤児院は、当たり前だが子供が多い。それはよく騒動が起きる、という意味でもある。
今回、騒動の号砲を鳴らしたのは、ルーティ・カトレットだった。
「いやーっ!ちょっと誰か! 誰か! 誰かーっ!」
「どーした!いったい何があった!?」
台所の方角から上がった、サイレンのような悲鳴はただ事じゃない。
ルーティのくせしてそんな声はまるでか弱い女の子みたいじゃないかなどと、口に出したなら即座に強烈な往復ビンタをお見舞いされそうに少々失礼なことを思いながら、ジューダスは居間を走り抜けて台所に駆け込んだのだった。
だんと床を踏みしめて、ジューダスの眼前に広がる光景。
ルーティは、テーブルの脚にすがりつくような格好で、床にへたり込んでいた。普段なら血色の良い艶やかな頬が、すっかりと血の気を失い今や紙のような色合いに成り果てている。
滅多に見られない怯えた瞳をめぐらせて、ルーティはジューダスの顔を見上げた。
青褪める唇が、震えながら開いた。
「や、あれイヤ、助けて……っ」
頭をゆるく横に振り、泣き出しそうな顔と声音で、ルーティはジューダスに助けを求めた。別にふざけていたわけではないのだが、ルーティの様子は真面目に尋常でない。
一体、なにがあった。腰が抜けて立ち上がれないらしいルーティに顔を真っ直ぐに向けて、そう訊ねようとしたジューダスはふと、小さなモノが蠢く様を視界の端で捕らえた。
反射的に、その方向に顔を向ける。ジューダスと同じくしゅばっとおそろしいスピードでそちらに目を向けたルーティの顔が、ますますと青褪めた。
床の上を注視する、瞬きを忘れたかのように見開かれた大きな目が、震えた。
ひ、と、小さく息を呑んで。
「キャーイヤー!やだやだやだやだ来ないでコッチ来ないでよーっ!」
再度、ルーティは、サイレンのような悲鳴を上げ始めた。
台所に響き渡るエマージェンシーコール、身もふたもないその悲鳴に鼓膜をビリビリ震わせながら、ジューダスもまたルーティと同じく床の一点を見つめていた。
位置的には、ちょうど流しの真下、影になった辺りに眉根を寄せて目を凝らす。
ぽつりと。
窓から射し込むさわやかな日の光を嫌って端に寄る、収束する鈍い闇色の姿が、あたかもルーティの悲鳴の指揮を取るかのように、長い触角を揺らめかせていた。
他のなにかと違えることなどあるはずのない独特の姿。流線型のフォルム。
まちがいない。ジューダスは絶対の確信をもって内心ひとり首肯する。
どう見てもごきぶりだった。
「……ゴキブリ……」
「イーヤーアァーその名前言わないで聞かせないでバカまぬけひとでなしいぃー!」
どこかガックリ脱力したジューダスの呟きに、すかさず機銃掃射じみた罵倒が返った。
自分でも自分の悲鳴がさすがにやかましいのか、両手で耳を塞いでジューダスを睨み上げるルーティはもはや涙目である。
救いを求めるかのごとくべったりとテーブルに貼りつく姿は今にもそこに同化してしまいそうな勢いで、腰が抜けていなかったならきっと彼女はテーブルによじ登ってその上で背中を丸めて毛を逆立てたに違いない。フーとか言いながら。
テーブルは大迷惑だ。
「も、なんでもいいから、なんでもいいから早くなんとかして、ダメなのアレ、生理的に受け付けないのよー……っ」
「わ、わかった。早急に対処するから落ち着け」
逆上しているルーティを落ち着かせるためにそう言って、ジューダスは再び、今は静止してただいたずらに触覚を揺らめかせる黒い虫を見据えた。
誰が置いていったモノか、テーブルに置き去られていた新聞を、手に取る。
丸めて構えたとたんにルーティが泣いた。
「いやあぁあそんなのダメー!ぷちって、ぷちって、きゃあぁあー!」
どうやらすっごく嫌な光景をまざまざと思い浮かべてしまったらしいルーティは、もはや自分がなにを口走っているのか良くわかっていないと思う。
ジューダスにしても奴は得意ではないので、早急に対処したいのはやまやまだったが、怯え惑うルーティの泣き声に思わず踏み止まってしまった。
ブン・ソードを正眼に構え、ジューダスは途方に暮れた。
そこへ。
「ルーティ、ジューダス?」
ルーティの悲鳴を聞きつけてか、台所にあらわれた
。
「……えーと、なにやってるの?」
「ゴ……いや、アレが出た」
「あ、それで新聞なんだ」
「そうだ、丁度いい手を貸してくれ」
「……私もアレは苦手なんだけど」
「……ルーティに手伝わせるよりいいだろう」
二人でルーティの方を見る。
話している間にさらに精神的に追い詰められたらしく、体操座りの格好に小さく縮こまり、顔を埋めた膝の間から『しくしく、しくしく』とか細い泣き声を漏らしていた。
「……行くか」
「……うん」
早くゴキブリを駆除しないと何処まで落ち込まれるか分かったものじゃない。
二人は孤児院の平穏の為に旅立ったのだった。
「何処へ行った?」
「まだそんなに遠くには行ってないと思う」
まずルーティを避難させ、ゴキブリを探す二人。
ゴキブリは基本的に狭い所へ逃げ込む。なので一度見失うと探すのが大変なのだ。
そして完全に見失うと今後ゴキブリの恐怖に耐えながら生活しなければならない。ここで完全に駆除しなければ。
しかし悪い事は重なるもの。そこへ今一番聞きたくない人物の声が響く。
『ただいまー』
『…………っ!』
息を呑む二人。そう、リアラとカイルが帰ってきたのだ。
(まずい……)
二人の心は今一つになった。 もし、リアラとゴキブリが出会おうもおのなら。
暗黒聖女様が降臨なさってしまう……っ!
「急ぐぞ!」
「うん!」
「ジューダス。いた!」
「そこか!」
壁に貼りついた黒い影を目ざとく見つけ、ジューダスはすかさず
ブン・ソードを構えた。
ターゲットロックオン。攻撃開始。
「はぁっ!」
気合と共に放たれる一閃。
だが、奴はそれを嘲笑うかのごとく、猛然と駆け出した。
「ちっ!逃がすか!」
黒点が疾る。カサカサと。壁から天井、天井から壁、そして床へと、孤児院の中をループコースターのように縦横無尽に駆けめぐる。
素早く動く虫の姿を追って、ジューダスと
も駆け出した。
そして。
黒い疾風の後を追い、ふたりの前にあらわれたのは。
「キャアッ!」
自分に近づくゴキブリを見て、悲鳴を上げるリアラの姿だった。
「古より伝わりし浄化の炎……」
「リアラそれ撃っちゃだめー!」
達もさりげにパニクっているようだ。口調がいつもと変わっている。
だがそれも仕方ない。ただでさえゴキブリで精神ダメージを受けているのに、リアラにエンシェントノヴァられてしまったら、ゴキブリどころか孤児院ごと吹っ飛んでしまう。
「リ、リアラ。アレは私とジューダスがちゃんと退治するから。落ち着いて。ね?」
「……ほんと?」
「ほ、ほんとほんと。ほら、今あっちでジューダスが頑張ってるし」
が示す方を見るリアラ。そこには、怒涛の勢いで
ブン・ソードを振るうジューダスのすがたが。
ジューダスもここでエンシェントノヴァられては堪らない。自然と攻撃に力が入る。既にその攻撃は、人に当たれば目の前に星が見える程になっている。当たればゴキブリも即死だろう。
しかしゴキブリの動きが早すぎて、攻撃が当たらない。
しかも時折こちらの攻撃を予測したような動きをするのだ。『当たらなければどうということは無い』そんな声が聞こえてくる気さえする。
十数分もの戦いの末、ついに部屋の隅に追い詰めたジューダス。
とリアラがほっとしている中、ジューダスの渾身の一撃が放たれた。
「ハァァアッ!!」
しかし攻撃が当たる、と思った瞬間、ゴキブリの最終奥義が放たれた!
「何っ!?」
薄紙のような羽を広げ、飛び去るゴキブリ。
リアラの方向に。
「灼熱と、業火の意思よ……」
「待てリアラ!」
「だからそれはだめだって!」
フランブレイブを放とうとするリアラを必死で止めるジューダスと
。
それにしても、刺したりはしないにも関わらず、その存在のみでいとも容易く大抵の女の子の理性を崩壊させる、あなおそろしやごきぶり。
そんな、孤児院内で巻き起こるささやかな騒動を尻目に。
「うっさいわねぇ……」
ぼそりと呟き、しかし、作業中のイクシフォスラーから視線を外そうとしない天才様一人。
たぶん、ここにいる人間の中で、最も冷静かつ素早くあの黒い虫に対応できるであろうマッド・サイエンティストな彼女は、孤児院の中からどたどたばたばたわあわあぎゃあぎゃあ聞こえてくる騒音と悲鳴から、これは火急の事態などではないと判断し、イクシフォスラーから一歩も出ようとしなかったのであった。
静まり返った機体の中、機関部を弄るその姿は、やはり至って冷静に。
なんとなく、一人勝ち的な雰囲気だった。
管理人コメント**
ブンソード!!(笑)
ルーティの態度が「まんま」という感じで目に浮かぶようでした。
そして、非常事態とばかりに漂う緊迫感(やや脚色)。
七転八倒(←やや日本語間違い)状態で楽しませていただきました。
Pさんのオリジナリティ文章表現にも微妙に惚れつつ…
ありがとうございました!
※乙女の皆様へ朗報。「アレ」は台所用洗剤をかけると一発です。
