この世界は……世界の空は、水に覆われている。
その事実を知る人間は少ない。
そこに時折映る「世界」はミラージュと呼ばれ、遥か古から近く、遠い存在として語られていた。
鏡面世界ミラージュ、あるいはそれは名の通り蜃気楼なのかもしれない。
水面に映る虚像なのかもしれない。
けれど、想いは馳せる。
いつかあの世界へと──
ツインコンチェルト 1
オルディネと呼ばれる塔がある。エクエス王国の南東、人も寄らぬ森の中にひっそりと立っている遺跡だ。空賊リンドブルムがそこを根城にしているのは幸いだったのかもしれない。シン
がオルディネの塔でリンドブルムに拾われてから三年が経っていた。
「あんた、まーた空なんか見上げちゃって。楽しい?」
細身の、派手だがどこか品のある服を着こなした男が、森にたたずむ飛行艇……ホワイトノアの甲板で空を見上げるその背後から現れた。
リンドブルムのメンバー、通称「珊瑚の射手」イーヴ。彼はシン
をこの塔で発見し、以来何かと面倒を見てくれている人間だ。
「今日は『ミラージュ』がよく見えるよ。イーヴも見てみたら?」
「あたしはもう見飽きたわ。いつからこのホワイトノアに乗ってると思ってるのよ」
と言いながらも、隣へ来て空を見上げる。なるほど、今日は確かにミラージュが良く見える。空には鏡面に映ったようにうっすらと山並みまでもが逆さに映っている。それは、文字通り水面に映るようにゆらりと揺らいで見えた。
「ミラージュは見飽きても空は嫌いじゃないんでしょ? 変なの」
「変なのはあんたよ。空『も』好きなんでしょ?」
そうだね、と涼やかな笑みを返してシン
は再び風を仰ぐ。初夏の風は、緑のにおいを運んでくる。が、その時ふと、火薬の匂いをかいだ気がしてシン
は眼下へ視線を移した。
「! イーヴ、あれ!」
「王国騎士!? まずいわ、すぐにフライトを……」
「そうはさせない!」
踵を返すイーヴの前に現れたのは一人の青年だった。騎士であればまだ見習いであろう若さで片手剣をこちらにむけている。
イーヴは素早く矢を番えて放つが、青年の方が一歩動きが早かった。青年は、床を蹴ると一気に距離を詰めて降り注いだ弓矢をなぎ払った。イーヴが次の動きに移る前に彼はすでにその眼前にいる。
「!」
「観念してもらおう。もうこの船は我ら騎士団が掌握した」
「イーヴ!」
「シン
、やめなさい!」
銃を構えようとコートの下に手をやればそれだけでイーヴはシン
の動きを察知し、制止の声がかかる。
青年はイーヴの喉元に銀の剣先をつきつけながら、ちらとシン
を見たがそれ以上動きがないと見て、再びイーヴに目を向ける。
先に声を上げたのはイーヴだった。
「随分な素早さね。それとも今までは見逃してくれてたのかしら」
「おとなしくしていれば命までは取らない」
しかし、青年はそれには答えず、剣も下ろさなかった。
ばたばたと駆ける音がする。騎士の仲間だろう。音は急速に近づいてきていた。
「ちょっとあんた」
弓から手を離して両手を上げるとイーヴは口早に告げる。
「お願いがあるのよ。この子のことは見逃してあげて?」
「?」
「イーヴ!」
青年にとって意外な申し出だったのか、青年の目が丸くなった。その青い目がシン
を見る。
いよいよ足音が近づくと、イーヴは答えを待たずに続けた。
「この子、私たちの一家じゃないわ。学者さんみたいだけど記憶がないの、保護してあげてよ」
「!」
その時、何人かの騎士たちが甲板への扉から駆け込んできた。一様にその手には剣を持っている。だが、血で濡れてはいなかった。そのことにほっとしながらシン
とイーヴは自分たちを取り巻く輪がゆっくりと縮められるのを見ていた。
「フィン、そいつで最後か」
「あ、はい。降伏の意思があるようです。すぐに連行しましょう。それから」
やや戸惑った間があって、フィンと呼ばれた青年はそれでも決めたようにシン
を見た。
「彼女はリンドブルムの一味ではないようです。保護を」
言われると騎士たちはなかば義務的にその作業に入った。
賊の一人は捕縛を、そうでない人間は保護を。
「イーヴ……っ」
手を縄でくくられ、騎士たちに囲まれて連れて行かれるイーヴの後姿に呼びかけるが、彼は少し振り向いて笑っただけで行ってしまった。シン
の前にも静止のために腕がさし伸ばされる。フィンと言ったか。彼は複雑そうな笑みを浮かべると
「安心していいよ。悪いようにはしないから」
そう言って、着いて来るよう促した。
実際のところ、身を寄せていたホワイトノアが制圧され、一家は捕らえられてしまったとなればどうしてみようもなかった。できれば助け出したいところだが、彼らは賊である。義賊と呼ばれる類であることはこの三年で理解していたが、それでもいつかお縄につく可能性は誰も否定していなかった。無血降伏も潔さの表れと見てもいいのかもしれない。それを無理にどうにかするのも気が引けるし、イーヴが自分を逃がしたことは、無意味にはしたくない。それに、自分ひとりではどうにもならない現状が、冷静になってみればどうにかする術も考えられるかもしれない。
シン
は考え、結果おとなしくフィンに着いていくことにした。
「君、記憶喪失って……本当に?」
「うそついてどうするんです」
うっ、とフィンは言葉を詰まらせ何事かを口ごもる。初対面が初対面だけに、好印象とは言い難かったがお人好しそうだ。うそをついてどうすることだってできる。例えば、賊の一人を逃がす口実、など。その考えに至らないあたりが、青年の思考回路を物語っている。真に受けている姿にシン
はふ、と笑みを浮かべた。その姿に真面目な顔をしてくいついてきそうなフィン。ともかく彼は、心中に渦巻いただろう言葉は抑えたらしく、今後の展望について話してきた。
「いずれにしても事情は聞かれると思うから、そのつもりで」
「三年も一緒にいたら賊の一味と思われても仕方ないけど……それは黙っていた方がいいかな?」
「何だって!?」
相談する必要などないのだが、なんとなく呟いてみるとフィンは驚いている。それはそうだろう。シン
もイーヴがあんなことを言った時は「それ、大分前の話だよね?」と言いたかったがそれどころではなかったくらいであるからして。もっともイーヴのことだからそれくらいは察して、敢えて何年前とは言わなかったのかもしれない。
「でも記憶がなくて、学者っていうのは本当。いや、学者って言うのは『多分』かな? 何せ気付いたらノートを片手にオルディネの塔に倒れてたんだから」
フィンは頭を抱えている。自分の判断の可否を自問しているのだろう。答えが出るのかはわからないが。
「今さら、言ったらまずいよねぇ。黙っててくれる?」
にこやか。
一連託生を決めたシン
だった。
「……イーヴから頼まれたでしょ。一度聞いた頼みごとを断るとか……」
「わかった。わかったからちょっと待ってくれないか」
彼は、任務遂行と天秤に乗せて計っていたようだが人情家らしい。困った顔をしながらもシン
の話を聞く態勢になった。
* * *
それから王都シャインヴィントへ着くとすぐにシン
は召喚され、フィンの言う通りいくつかのことを問われることになった。が、記憶喪失をいいことによく覚えてないの一点張りで難を逃れるとどういう因果かフィンが世話をしてくれることになった。
本当にどういう因果だろう。聞いてみると
「君の保護を頼まれたのは俺だから」
理由は単純明快である。
「保護ってフィン……一緒に住むの?」
「いや、俺は今、寮生活だから。オレの実家にでもいればいいさ」
「実家ってどこ?」
シャインヴィントで寮暮らしをしているのだから、近くはないだろう。知らない場所はともかく、知らない人間の中へ放り込まれることに一抹の不安を覚えるとフィンは手帳を取り出してシン
に見せた。
「ここだよ。西にあるサクセサー領だ」
そこには小さな地図がある。三年間このエクエスにいたのだから町の名前くらいは覚えている。行ったことはないが、確かブルーフォレスト大森林の東に位置する小さな領地だ。
「サクセサー? ……フィンのファミリーネームと同じだね」
「うん? ……あぁ、まぁね」
改めて自己紹介を受けるにあたって、彼はフィン=サクセサーと名乗っていた。なんとなく濁したということは無関係ではあるまい。追及せずに、シン
は地図を眺めた。
世界は三つの大陸に別れている。
東のテールディ、北のアオスブルフ、そして南のエクエス。それぞれが大晶石と呼ばれる大きな結晶石を有していてそこから生まれる星晶と呼ばれる原素……エルブレスが世界にエネルギーとして供給されていた。
エクエスは中でも風の大晶石を有していて、だがしかし技術に溺れることはなく緑満ち溢れる肥沃な土地を有している。ブルーフォレストはその象徴だ。
「ブルーフォレストには、大晶石があるんだよね。行ってみたいな」
「はは、それって学者としての興味か?」
「それもあるけど。リンドブルムではあまり用がないところだからね。行ったことないから」
フィンはそう聞いて、ちょっとだけ考え込んでいるようだった。しかし、よし、と顔を上げると笑顔で人差し指を立てた。
「じゃあ行ってみるか」
「えっ」
「近々長期休暇があるんだよ。シン
もその時、送っていこうと思ったんだけどせっかくだから……案内するよ」
「やったぁ」
どちらが年上なのかわからない勢いで喜ぶシン
を見て、フィンも笑っている。そして四日後、二人はサクセサー領へ向けて出発することになる。
「なぁ……聞いてもいいか?」
その道すがら、妙に遠慮深くフィンが声をかけてきた。
「?」
「シン
は記憶がないんだろう? そういうのって……本当に何も覚えてないものなのか?」
「そうでもないよ」
シン
は空を見上げる。今日は薄曇りでミラージュも見えない。
「といっても覚えていたことなんて自分の名前と、ミラージュのことくらいだけど」
「ミラージュのこと?」
「いつか行ってみたいなって思ってた。それは覚えてる」
それだけ鮮明な思いだったということだろうか。家族の顔も名前も思い出せないのに、ミラージュのことは覚えてるなんてちょっとした皮肉だ。
「行ってみたいって……行けるのか?」
「それがおかしいんだよねぇ。そういうとリンドブルムのみんなも笑うんだ。……行けないの?」
「いや、俺に聞かれても……」
ミラージュは単なる虚像に過ぎないのだろうか。そうでない確信を感じてやまないのだが、なんとなくだとか、うっすらだとかいうのは確信とは言わない気もする。シン
は首をひねった。
「あとはなんとなくいつも隣に誰かいたような感じがする、かな」
「へぇ~家族かな。他には?」
「ミラージュのことをぽつぽつと」
「……ミラージュに関する学者だったのかな、シン
は」
そうかもしれない。違う気もする。
シン
の周りでは……あるいは、町に出てみてもミラージュの存在なんておとぎ話としか思われていないくらいだから、だとすれば相当変わりものになるだろう。
ともあれ、悩んでみても仕方ないのであまりこだわらないことにする。
「そういうフィンは? 聞いてもいい?」
「何を?」
「兄弟とかいるの?」
「あぁ、弟が一人。小さい頃は泣き虫でな。今はどうしていることやら」
フィンはどこか懐かしそうに瞳を細めた。まだ回顧に浸る年ではないだろうと言いたかったが黙っておくことにする。
「弟さんは、サクセサーにはいないんだ」
「あぁ、小さい頃アオスブルフに養子に出て、今は軍人だって言ってたっけ」
幼少の頃、家族と引き離されるのはどんな気持ちなのだろう。泣き虫だと言った彼の弟は今は軍部で頑張っているのだろうか。
「それにしても兄は騎士で弟は軍人か。やっぱり誰かを護りたいっていう気持ちが強いの?」
「それはもちろん。オレは誰も失いたくないって思うよ。それが例え知らない人であっても」
「立派な心掛けだね。でもそういう人って自分を大事にしない傾向もありそうだから、まず自分も大事にした方がいいよ?」
自己犠牲は美化され語られることがよくあるが決して美しいものじゃないとシン
は思う。まず、人を大事にしたいなら自分を大事にすべきだ。それができなければ他人など護れはしないのだから……かといって行き過ぎると自己愛が激しくなるので何事もほどほどに、だが。
フィンは言われて真面目に考え込んでいる。
「……それともオレは、自分が大事だからこの道を選んだんだろうか」
いきなり哲学モードに入ってしまった。
「人を優先して、自分を捨てるか。自分を優先して人を捨てるか、かぁ……両立する道があれば一番いいんだけどね。ま、どっちに転んでも自分で選んだんだから貫くのが流儀かな」
「貫くのが流儀、か。そうかもな。シン
」
突如呼ばれて振り返る。さくさくと短い草を踏み分ける音は続いている。風が芽吹き始めた木々の枝を揺らした。
「実はオレ、サクセサー領主の息子なんだ」
「うん」
「八年前に家を飛び出して、……恥ずかしい話だけど一度も家には帰ってない」
「別に恥ずかしくないでしょ」
むしろ成人前後と思われる彼の年齢を考えると驚愕だ。彼は十一、二の頃に家を出たことになる。
シン
の反応が意外だったのか、やや呆けてそれからふっとフィンは笑みを浮かべる。
「親父の跡を継ぐつもりはなくて、騎士になったけど……分かり合えないままなんだよな」
「じゃあ今回帰るのは、話し合う勇気が出たってこと?」
「まぁ……シン
のことは口実なのかも。ごめん」
「謝らなくていいよ」
一旦止めた足をまた動かし始める。風はさやさやと吹いているし、この時期特有の強い日差しがあるわけでもない。気持ちがいい日だ。
「うまくいくといいね」
「あぁ」
顔を上げると、森の向こうに町が見えた。サクセサーだった。
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