--ACT.1 帰るべき場所
轟音。
水しぶき。
岩壁を背にもたれるリオン。
はそれを一度切り取られた光景でも見るかのような、どこか遠い心地で目の当たりにしていた。
戻ってきた…?
そう無意識に形どられた言葉の意味はすぐに明確にはならなかったが、改めてどういう意味かを自ら反芻したその時。
ざわり、と意識が波立つ感覚を覚えた。
洞窟。
まさしく怒涛の勢いでホール状の広い空間に渦を巻き始めている海水。
そして鮮烈な感覚がもたらす危機的状況。
もう、瞳を伏せたまま
がすぐ傍にいることにすら気付かないのかその眼前でリオンは乱れた浅い呼吸を繰り返している。
その手に握られたままのシャルティエは血に塗れて艶めかしい水銀のような光沢に埋もれ沈黙していた。
文字どおり、悪夢のような光景。
急速に意識が覚醒していく感覚を抱く
に反して意識を深淵に沈ませようとしている少年の元に
は駆け寄った。
「リオン…?リオンっ!!」
『以前』ここへ来たときにはない鋭さで
は彼の名を呼ぶ。
「
…
…?」
やはりそこにいたことにすら気付かなかったのか、それは朦朧として声に反応しただけに過ぎない。瞳が暗い足元をさ迷って小さく呼び返すのを
は聞いた。
シャルティエの意識も同時に自分に傾いたことを傍らに感じながら。
「そうだよ、しっかりして」
うつろな意識を引き戻そうと声をかけると彼は残ったそれを集約させるようにして僅かに顔を上げる。
見上げた瞳に浮かんでいるのは少しばかりの驚きともはや終りへ向かうしかない憔悴。
血色の失せた顔はこのままいつ意識を途絶えさせても仕方の無い状況であることを告げていた。
刹那見張られた紫闇の瞳はすぐに力を失って遠くを見てしまう。
「なぜ…残った」
力なく項垂れるようにして再び俯いた彼の声はひどく辛辣そうで馬鹿が、といいたげだった。
時間が無い。
はリオンの問いには答えず、差し迫る時を首筋で感じながら湿った昏い土の上に視線を這わせた。
なんとかしなければ。
そして彼女の視線は横たえられたシャルティエに止まる。
考える間があった。ほんの一秒と満たなかったかもしれない。
はリオンの手から容易くシャルティエを抜き取ると無意識に、だろう。コアクリスタルについた血を袖口で拭って口早に語り掛ける。
「シャル、力貸して」
『えっ…』
躊躇する間があった。それはそうだ、長らく共に過ごしたマスターが危機に瀕している。できるものなら何とかしたいのは他ならない彼である。けれど彼自 身の力ではどうすることもできない。そんな諦めにも似た終末の時の中、シャルティエはせめて最後までと決めたばかりなのだから。
しかし、
は彼の疑問の声すら待たなかった。
手持ちの薄いケースから取り出したのは小さな青いディスク。
それはラディスロウで手にした、ソーディアン専用のディスクだった。
彼女に使うことなど出来ないはずのそれ。
そう、扱うことなどできないはずだった。
『このディスク…!』
装着されれば何なのか、わかる。
それは回復晶術「リザレクション」のアタッチメントディスクだった。
どうしてかはわからない。
けれど今ならばできる確信があった。
シャルティエから協力に対して確かな同意が返って来るのを確認して
は詠唱のためにコンセントレーションをリンクするよう傾けた。
「湧き上がる命の泉よ 大いなる深淵にて彷徨せし者に、再び光を…!」
胸の前にかざすようにして横たえられたシャルティエのコアクリスタルを中核として柔らかな、しかし清廉とした光が溢れ、洞窟の闇を刹那塗り替える。
まるで、手馴れた所業であるかのような遅滞のなさで晶術は発動し、光が収まるとそれはリオンの負った傷を跡形も無く消し去っていた。
「お…前…」
ウソのように消失した痛みに、驚いた、しかし確固とした意志の光を取り戻した瞳でリオンは顔を上げた。
倦怠感は抜けない。けれど、動くことは出来る。
少なくとも黙って死を待つほど意志の力を無くした身体ではない。
けれど、リオンは眉を僅かにひそめた。ひそめたというより表情を歪めたといった方が正しいのかもしれない。
それは余計なことを、という非難なのかそれともなぜ、とう疑問なのか…どのみちあまりに微小な変化で判断はつきそうもなかった。
けれどそんなことを気にかけている余裕もまた彼らには残されていない。
立ち上がる気配の無いリオンの傍らに
は膝をついた。
「リオン、行こう。みんなの所に帰ろう?」
今度こそ紫闇の瞳が意思を伴って見張られ、今しがた見せた表情がそのまま色濃いものになる。
困惑の入り混じった瞳。それから少しばかりの反発。いや、拒否だろうか?迷いかもしれない。
つい先ほど剣を向けたばかりの者たちの元に戻れとは、随分と虫のいい話だ。すぐに言われて頷ける方がおかしいというもの。
『坊ちゃん…』
が晶術を完遂したということはシャルティエの意志は
の側にあるということでもある。
ここで最後の訪れを待つことよりも、見出した希望にすがるようなシャルティエの声が水の音に紛れてささやいた。
ひたり、と薄く流れ込んだ海水がブーツの底を撫でるように浸食しはじめる。
の言葉とは裏腹にもはや状況は一刻とて許してくれそうにもなかった。
それがわかっているからこそ、リオンもまた受諾することができないのも事実。
「もう…遅い。お前もあの音を聞いただろう」
終末の震撼。それは今も続いている。
この洞窟はただ沈もうとしているのではない。
まもなくダイクロフトの浮上により島ごと崩壊するだろう。
ぱらぱらと時折降り来る小さな破片がそれも遠い未来でないことを告げていた。
「僕たちがここから出ることはできない」
そう、例え脱出を試みようと思い立ったとしても。
かろうじて可能なのが、ヒューゴの使っていた飛行竜を使うこと。
しかしそれももはや手遅れだ。
それが無いと言うことは、スタンたちは無事に脱出したということでもあるのだが。
リオンの見解は、感情の域を排除したとしても事実として的確だった。
ダイクロフト浮上と言う事態に何の備えもないならば。
「できるよ」
決定的な事実を覆す発言に一度は苦痛に俯いた顔を再びリオンは上げる。
そこには未だ可能性を追おうとする
の姿がある。
「ベルナルドがいる。私たちはここへベルナルドで来たんだから…この洞窟が「海に面した」どこかへ繋がっているなら、私たちはここから出ることが出来 る」
「…!」
生きて帰る、そのために船ではなくベルナルドを選んだ。
この島は四方を海に囲まれている。言うまでもなくどこも海につながっていると言うことだ。
それだけでも生還の可能性は飛躍的に増して聞こえた。
事実はそれほど楽観的ではないにせよ。
いずれ危機的状況であることには変わりなくとも、手段が尽きたわけではないことは考慮してしかるべきだった。
但し、そこまでは自力で脱出しなければならない。
ひたひたと流れすがって足元を濡らし始めた水はくるぶしへ。勢いを増す水はすぐに膝までも埋めるだろう。
躊躇している時間はなかった。
「リオン…私たちの未来は私たちにしか選べない。私は…死ぬつもりでここに来たんじゃない。まだ、やることがあるでしょう?」
「…」
終わりではない。そう言われればやるべきことが思い浮かばないわけはなかった。
マリアンを、大切な人を助けたい。
それは従うことでしか叶わないはずの願いでもあった。
「僕は…」
は何を思ったのかさっと自分の首筋に手を回すと銀のチェーンをはずしてそれをリオンの手に握らせる。
細い鎖の合間にはここへ来る前に彼の託したエメラルドリング。その本当の意味は彼だけが握っているはずだった。
「選んで。自分の意志で」
せかすようなその言葉にリオンは想いを巡らせた。
打算でも、予測でもない。
彼自身の想いを。
手の内に視線を落としていた、その白い手が銀の鎖を内に抱いたまま強く握られる。
痛みに瞳を細めるようにしてから閉じ、開かれたリオンの瞳には鮮明な意志の光が。
自分自身の未来を選び取ること。
彼の中で答えは出ていた。
リオンは無言で立ち上がる。
濡れたマントが重そうに揺れて波打つ水面を離れ…
「行こう」
『坊ちゃん…!』
シャルティエの嬉しそうな声に
の顔にも笑みが浮かぶ。それも一瞬であるが。
立ち上がると思いのほかすさまじい勢いでうねる水は膝の高さに上がり行く先へと流れ落ちていた。
切迫した状況に、2人の顔が再びひきしまる。
舞台のようにせり出した岩棚は今や平坦な湖に流れ込む、川の浅瀬と化している。
それでも一段高いおかげで彼らは激流を見下ろす形でその端に立った。
生きて戻るには、この流れを超えなければならない。
『坊ちゃん、僕が必ず守ってみせます』
轟音に掻き消される中、シャルティエは自らの内に誓いを立てる。
その力は確かにマスターを庇護できるはずだった。
一度は諦めかけた、けれど与えられたチャンスをもう逃がしたりはしない。
背後で、崩落の音。
はぜる岩塊
飛沫を上げ追い立てる流れ。
そして2人は顔を見合わせ頷きあうと、激流の中に自ら身を投じた。
