--ACT.2 再出発
薄明かり、濡れた身体…
はどこか淀んだ生ぬるい大気を感じながら目を覚ました。
冷えた体の上にある、それとは別の心地よい温もりも感じながら。
暗い、が闇ではない。
ほの明るく、ライトと言うよりは夜に沈む町に浮かぶガス灯のような暖かな光が高いドーム状の天井付近で漏れていた。
その採光色のせいか寒々しいほどに広いその場所もさほど重苦しくは感じられなかった。
身体にまとわりついているのは気だるさとどこから来るのかわからない鈍い痛み。
思考を緩慢にさせる空気の中で
は無理に考えるのを止め、冷たい床に身体を預けたまま首を巡らせた。
同時に自分の右手が視界に入る。
上げようとして…彼女の上にあるものの前に阻まれた。
仰向けに横たわったまま改めて自分の身体を「見下ろす」と黒い髪が首筋に触れる。
「リオン…」
『!
…気がついた!?』
左手で触れるともなしに確かめるとシャルティエの声が
を呼んだ。
見れば、左側の床に…
の身体の上に、どういうわけか斜めから重なるようにして伏しているリオンの、投げ出された右手のすぐそばにシャルティエは横たえられていた。
シャルティエの声に応えてから改めて確認する。
濡れた黒髪に隠れたリオンの白い横顔は、彼らの声にも目を覚ますことはなかったがどうやら気を失っているだけのようだ。
落ち着いた規則的な呼吸は疲労を拭うために深い眠りに落ちていることを示している。
2人とも同じように全身ずぶ濡れになってはいたが身体も冷えてはいなかった。
この見慣れない空間に満たされた暖かい空気のせいだろう。
湿度と流れのなさにあいまって気持ちのいいものではないが、そのおかげで体温を取り戻せたと思えば感謝していいくらいだ。
はそれが生体金属でもある海竜ベルナルドの中であることを察した。
「無事だったんだ」
そうして、ようやく自らの身の置かれた状況に安堵の息をつく。
あの激流から生還できたのは奇跡のようなものだ。
だが、その最中においてリオンがシャルティエの「地」属性を活かし、隙あらば彼らを飲み込もうとする怒涛に自らの身をもって抗ったことも、奇跡でもな んでもない。
そう、ベルナルドにたどり着けたことすらもおそらくは。
「シャルが守ってくれたんだ?」
『僕は……いや、そうだね。ほら、守るって言ったでしょう?』
一度は否定しかけ、けれどどこか誇らしそうにシャルティエは改めて返事を返した。
事実、彼は長らく無事を望んでいたマスターの身を守ったのだ。
彼にとって死に面した危機を、マスターと共に切り抜けたことは自ら賛辞するに足りるのだろう。
事によってはクレメンテがそうしたように、シャルティエがベルナルドへのアクセスをしてくれたのかもしれない。
実のところ、おそらくはベルナルドまで後一歩のところで意識を失ってしまった
にはここに入ってからの経緯が掴めていなかった。
嬉しそうに胸を張らんばかりの声でシャルティエが告げる。と
「1人では何も出来ないくせに、何を偉そうなんだ?」
ついぞ反論、とばかりのリオンの声が後に続いた。
見ると彼は顔を上げて…やはり倦怠感のせいだろう。ワンテンポ遅れてようやく自らの身体を持ち上げた。
休日の朝のまどろみにあるような気だるいがどこか心地よい暖かさが
の上から離れて
もまた、上体を起こす。
口ぶりがいつもの調子であることに安堵感を覚えつつ
はシャルティエのマスターへの安堵と弁解の声を聞いた。
弁解には大して取り合わず、どこか低血圧そうな顔でソーディアンを手に、コアクリスタルに視線を落とすリオンの顔色は良くはない。
血液を少なからず失ったのだから当然といえば当然だが、伏し目がちに黙って手元をみつめる彼の視線はどこか遠く、深い物思いに浸っても見える。
その視線が、濡れた黒髪の下から
に向く。
波風のない、だが、穏やかと言うよりはひたすらに黙した色彩で。
沈黙の後に続く言葉はなかった。ふ、と視線が逸れると思い直したように彼は高いドーム状の天井を見上げた。
なんとはなしにつられてちらと視線を流しても何があるというものでもない。
「とにかく、現状を確認できる場所に出るべきだな」
彼は既にこれから何をすべきかへ思考を切り替えたようだった。
けれど、簡単には「セインガルドへ戻る」とは言えない。
生還できたとしても、できたからこそ行く先が霧に撒かれているのもまた変えようもない事実だった。
彼にとって、おそらくはセインガルドで待っているのは最も辛い現実なのだろうから。
とにかく、何が起きているのか自らの目で確かめなければならない。
* * *
ベルナルドが停泊していたのはダリルシェイド北の大洋の只中だった。
ダイクロフト浮上の余波からなんとか逃れ、間一髪崩壊の渦から距離を保っていたのがその場所だ。
海の中であるから、移動の際に飛行竜より周囲の抵抗を感じないわけにはいかない。
ゆるやかに、だが実際はかなりの速度で動き出す躯体と、波の揺れを感じながら陸につくまでの時間で2人はとりあえず海水でべたついた身体を洗い、心地 だけはなんとか落ち着けていた。
元来飛行竜の海版、ともいうべきベルナルドには当然海水のろ過装置も設置されている。
ベルナルドに備えられたすべての機能を使うにはメンテナンスが必要そうだが、日常的に必要なもののいくつかはそのままでも稼動しそうだ。
天地戦争時代の科学力は1000年の時を超えても永続する凄まじいものなのだと実感する。
生乾きした服はどうしようもないが、大陸からさほど離れた場所ではないから人のいる場所までいけば代わりのものは調達できるだろう。
同じく濡れたままの髪をかきあげ、
は部屋に備え付けられたボードを見上げる。
昔の地図らしい。大陸の位置は殆ど変わらないが知らない名前がいくつか刻まれているのを見る。
ホールから移動して移った部屋はおそらく客室のようなものだろう。
埃をかぶっていてもテーブルやソファといった調度品は一通り揃っていたし、ベッドだけの飾り気のない船員室より居心地は良い。
ガス灯を模したノスタルジックな形のランプに宿る光はリオンに言わせるとレンズの動力を利用したものだが、暖かい色合いの光となっていた。
休む部屋だと配慮してのことだろう。
自分たちの居場所分だけ埃を払って確保した室内の、イスに腰をかけて
はぼんやりと頬杖をついた。
うっかり突っ伏すと眠ってしまいそうだ。
それはそれで構わないのだが、なんとなくベルナルド内の様子を見に行ったリオンを待って起きていなければならないような気がしていた。
部屋に窓はあるが、丸くくりぬかれたそれは潜水艦のそれそのもので今は荒れて濁った海水しか見えない。
時折その暗い曇りの中に動くものを眺めながら
は考えていた。
私は、なぜディスクが使えたんだろう
──それは、晶術の…ソーディアンの使い方を「知って」いるからどうして「戻ってきた」と思ったのだろう
──その答えも知っている。
記憶を手繰るように瞳を細め、曖昧なそれが形をとるかと思われたその時…カチャリ、と前触れもなくドアが開いた。
湿ったマントが少し重そうなリオンの姿がある。
その顔は思わしくないものをみつけてしまったのかのように沈んで見えた。
「どうしたの?」
「奥の制御室でモニターを見てきた。ダイクロフトが確認できた」
ベルナルドはごく浅い場所を航行している。
多少潜行していてもきっとこの技術なら水面近くから空を捉えることも容易なはずだ。
陸に上がるまでもなく空に浮かんだ災厄をモニター越しに捉えて彼は何を思ったのだろう。
どこか悔しそうな表情をちらつかせてそれでも声を荒げることなく代わりに痛烈な光すら瞳に宿してはっきりと告げた。
「ダリルシェイドに戻る」
「!」
それはあまりにも早い決断だった。
シャルティエが何も言わないところを見ると彼は制御室でそのことについて自分なりに完結させてしまったには間違いなかった。
いずれ逃げ出すわけにはいかないことである。が──
できることなら最良の機会で…
例えばスタンたちとなんとか合流してから、あるいはその方法は、と
も
なりに考えようとしていたわけであるが最良の策がまとまらないうちに彼は結論を出してしまったようだった。
ダリルシェイドに行くことに関しては異存はない。
しかし、ただ彼の本来の居場所であった場所…城へ戻ることに関して、ただ楽観しできるほど
は子供でもなかった。
彼は…
リオン=マグナスは、おそらく今にしても多くの人間にとって「裏切り者」であるのだから。
ダリルシェイドでどれほど情報が錯綜しているのかはわからない。だが、王国側の人間として弁明できる人間が居ない以上彼にとってそれは不利この上ない ことでもあった。
誰もが冷静に話し合いに応じる賢明さがあるならいい。けれど、人は誰もがそういう生き物ではない。
むしろデマゴーグひとつで良く知りもしない誰かを自分たちの不満の拠り所にして殺しかねない、そういう生き物でもある。
の顔色が一瞬にして曇ってしまったことを薄明かりの中で察してリオンは静かに続けた。
「いずれは戻らなければならない」
何よりも彼自身が理解している現実だった。
「僕のしたことは…許されないことだ」
敢えて、互いの生還を確認しても触れなかった。
それをリオンは確認するように語り始める。それ自体がこれから進む道の覚悟の証でもある。おそらくは。
「だからこそ戻る。先に進むためにも…逃げているわけにはいかないんだ」
そして彼もまた、自分の身にかかるあらゆる可能性が考えられないほど愚かではなかった。それでも選んだのなら…止めるようなまねができるわけもない。
既に選んでしまったのなら、どうすればその中から一番いい方法がみつけられるのかを考えるべきだ。
深刻な顔をしていたのだろう。
それをどうとったのかリオンは淡い闇の中でふっと薄く唇を歪めると小さく笑った。
「心配しなくても…すぐすぐ殺されることはないだろう。僕はソーディアンマスターで、ヒューゴの手の内を知る者でもある。
セインガルド王は賢明だ。ただ拘束するよりも国のために利用することも考えるはずだ。それならそれで僕には異存はない」
「…」
簡単に自らの身に起こるかもしれない辛辣な可能性を述べるリオン。
いまはそれすらはっきり話し合わねばならない時なのだろう。
言葉は口にすれば確かな形を持った可能性に変わる。
だからはばかられることもある。
だが、今はすべての痛みと向き合わなければならない。きっと。
「お前はここに残れ」
「それだけは絶対に駄目」
言い聞かせるつもりが反論されるとは思わなかったのだろう。
即答した
の言葉にリオンの瞳がわずかに意外そうに見開かれた。
「私は…城とは縁もないし発言力もないけど…」
何を言っていいのか選ぶほど言葉も思い浮かばず
が言ったのは本当にその言葉が適切なのかはわからないものだった。
「ちゃんと見届ける権利くらいはあるでしょう?」
「……」
1人にされても困るのだ。
それだけは言える。
リオンは年齢ほどに子供ではなく、スタンたちをすぐに頼ることはしない。
いつか合流は出来るだろうが、その前に自分の責任を負おうとしている。
ソーディアンマスターの仲間としてではなく、セインガルドに属する者としての責任だ。
つまりはスタンもルーティも、そして
も知らない彼の生きてきた世界で培ってきたものに対する責任。
だからそれに対してどうこうできるのは彼だけなのだろう。
けれど、どこまでも一人で背負おうとするのはもう、これで最後にして欲しい。
そんな意味もあったのかもしれない。
「そうだな…お前には、その権利がある。だが、覚えておいてくれ。僕は…」
視線を逸らしたのは、声を消してしまいそうなほど小さく告げたのは照れのようなものなのかもしれない。
それは今までの彼の行く先とは真逆にあるものだったから。
「これで終わりにするために行くんじゃない。そうだろう?」
