STEP7 淡雪
空が暗い。
雪は相変わらずちらほらと降っているが風はない。
ひたすら静かな気配に
は嵐の前のようだ、と思った。
「さきほどまでの喧燥がウソのようだな」
寄港して、桟橋に降り立ちながらマリーが見渡す。
黒十字軍は全滅とはいかないまでも、ファンダリア船籍の軍を退けていた。
直前にはこの港に寄港していたのだろう。
町の住民がみかけられない中、踏みにじられたような足跡だけが無数に雪の上に落ちている。
「……あんたたち……どこの国のものだ?」
誰もいないと思われた港に降り立つとで初老の男が荷物の向こうから声をかけてきた。
様子を伺うように、どこか緊張と恐れを浮かべながら。
「安心しろ。僕たちはセインガルドの者だ。この国はどうなっている?」
いきなり本題にはいったが、男はセインガルドと聞いて顔を明るくした。
助かった。
そう言わんばかりの様子に何があったかは大方察しはつく。
「我々にも正直、なんだかわからんのさ。奴ら、いきなり襲撃してきおった。モンスターも混じっていて自警団もあっというまに全滅だった。あんたたちが占領軍を退けたのを見てワシは様子を見に来たんだ」
占領軍。
その言葉に顔を見合わせる。
グレバムがこの町を落としたのは間違いない。
「そいつらはどこにいる?」
「さぁ……ワシらも占領されてからは外には出られなかったからな。ただ、ティルソの森を抜けてくる者もいないのを見ると……サイリルもやられているのだろうな」
「ティルソの森?」
「この町の西にある森だよ。そこからサイリルへ抜けて北上するとハイデルベルグに着く」
「海軍を抑えられている時点でハイデルベルグも落ちたとみて間違いないだろう」
いつもどおりスタンの疑問に
が答える様子を横目にリオンが思考を馳せる。
「考えていてもらち開かないわ。とにかく、ハイデルベルグまで行ってみるしかないんじゃない」
「……不安は残るがそれしかないな」
「あんたたちが、なんとかしてくれるっていうならワシらもできるだけのことはしよう。何か、入用な物はあるのか?」
男の申し出に顔を見合わせる仲間たち。
いずれ、このまま進むだけでは能が無い。
ハイデルベルグの地理に詳しいものが居ない以上、話を聞く価値はあるだろう。
男の後ろから見守るように姿を見せはじめた住民の姿に異論を唱えるものは居なかった。
決をとって黒十字の船を振り返ると待っていたようにジョニーとフェイトが笑みで迎えた。
「すまんな。お前さんたちと一緒に行きたいのは山々だが……見送れるのもここまでだ」
「殊勝だな。気味が悪いぞ」
「相変わらず手厳しいねぇ~♪」
珍しく本気で言ったのにすかさずリオンにかわされて情けない顔で笑うジョニー。
そちらは放っておいてリオンはフェイトに向き直る。
「ここまで送ってくれたことに礼を言う。後はまかせてくれ」
「えぇ、あなたがたならやってくれると信じています」
アクアヴェイルの惨状を目の当たりにしたら、一刻も早く戻りたいところだろう。
それを押して遠くファンダリアまで来たのだから感謝の気持ちは当然だ。
が。
聞きなれないリオンの礼に思わず時が呆けた。
「何だ?」
「あんたも礼なんて言えたのね~と皆して感心してたところよ」
「一度くらい礼を言われるような事してみろ!」
「なんですって!? それがパーティの回復役の私に向かって言う言葉!?」
「あぁ、いつもすまないな。アトワイト」
「あんたってヤツは……」
リオンが一応の勝利を収めたところで、黒十字の船はスノーフリアの港を離れ出した。
苦笑で見守っていたスタン達も見上げるようにフェイト達を送り出す。
行く手に広がるような暗い空は、相変わらず白く小さな贈り物を地上に投げかけ続けていた。
久々に、地に足を付けた気分。
船旅と野営続きにさすがに疲労が蓄積していたのかまだ夕食前だと言うのに、与えられたベッドに倒れ込むと睡魔が襲ってきた。
ぱちりと暖炉で炎のはぜる音。
換気のために惜しげもなく開け放たれた窓からは、暑くなりすぎた部屋を冷ますようにひんやりとした空気が流れ込む。
久々の一人部屋だ。
スタンたちといるのも楽しいが、やはりこうして静かな場所に居ると緊張感から解放される。
これからティルソの森を抜けて、
ウッドロウと会って、
氷の大河を渡って。
もうハイデルベルグはすぐそこだ。
先の見通しを立てようとした
は、逆に焦燥を感じて自らの考えに眉を寄せた。
神の眼を奪い返したら。
スタンたちとの別れが待っている。
そうしたら、その先は───
おそらく。
今のままではリオンの選択を変えることはできないだろう。
神の眼が戻れば、ヒューゴの計画は目に見えて発動する。
かといって彼に与えられるような別の選択肢というのは……正直
には見えてこなかった。
そもそも「与える」などという立場ではないのだから。
言葉のあやであるにせよそんな言葉を思い付いたこと自体、腹立たしくもある。
同じ人間で少しだけ内情を知っていて、
でもそれはリオンは知らなくて。
かといって、
が「知っている」ことを知ったら彼は心を閉ざすだろう。
絶対にそれだけは避けなければならない。
同時に避けなければならないことも多すぎる。
その中でできることと言ったら……
はゆるゆると瞼を開ける。
もう、決めていた。
だからそれを忘れずにいて、後は揺らぎなければそれでいい。
いずれにせよ神の眼の奪還が先である。
これはゲームじゃない。
そんなこと嫌が応にも味わってきた。
展開によっては、任務失敗でジ・エンドだってありうるのだ。
だから、常に今を切り抜けることを考えなければならない。
ここに来るまでもそうだった。
考えてみれば……先を知っていてもそれが何ということはないのだと気づく。
いつのまにか持てる知識に頼らず、その時々の選択をしている自分がいた。
空の上から、地上で展開する営みを見下ろすのではなく、定められた流れに意図的に干渉するような立場でもなく
驚くほどに、彼らの「仲間」なのであるのだと────
キィ。
ふいにドアのきしむ音。
は続きのベランダに何者かの影が現れたことで意識を引き戻した。
両隣はフィリアとマリーに与えられた部屋。
同じようにそれぞれが物思いにふけっているのだろうか。
そんなことを考えながら、窓辺に近づく。
開け放たれたガラスの向こうには暗い空を見上げるマリーの姿があった。
「マリー?」
何を考えているのかは見当がついた。
「あぁ、すまない。邪魔をしたか?」
自分の部屋のベランダに出て邪魔と言う発想も何であるが、多分、その場所は思考にはむかない。
そんなことを思いながらひたりと冷たい外に出る。
白い息が闇に溶けて消えた。
「いや。……どうしたの」
聞くと微笑って再び空を見上げる。
「なんだか懐かしい」
やはり。
ふり来る雪は記憶を呼び戻そうとしている。
マリーはじっと灰色の空を見続けた。
隣で見上げる。
厚い雲に覆われ月も星も見えないが、人通りもない町の静けさもあいまって何か不思議なものを見ているような気分になる。
こうして空を見上げるのは嫌いじゃない。例えその色が青ではないとしても。
しばらく沈黙につきあっているとマリーの方から声をかけてきた。
「何も言わないのか?」
「……記憶が戻りそうなのか、とか?」
「
はいつもすべてお見通しのようなのだな」
穏やかな瞳が丸くなる。
マリーはある意味、真っ白だ。
とてもわかりやすいし、素直で、ウソもつかない。
隠し事とは無縁な様が、見るものに安堵感をもたらす。
「私は、記憶の無いことを不安だと思ったことが無かった」
再び穏やかな笑みを浮かべてマリーは語り出した。
「でも、今は……少しだけもどかしい。もしかしたら、この地に私にとって大切なものがあるのだろうか」
「焦らなくても大丈夫だよ。それは記憶が戻りかけてる証拠だから。きっともう少ししたら思い出す」
視線をゆるやかに下方へ流すと家々から漏れる灯りがほの明るく道を照らし出している。
「大切なことなんてそんな簡単に忘れるものじゃないんだ」
「
もそうなのか?」
……。そういえば私も記憶喪失だったっけ。
ちょっと違うけど……
マリーにとってそれは大切なことだから。
は思うままに言葉を紡いだ。
「そうだね、私は「大切なことは絶対に忘れない」っていつも思ってた。だから例え思い出せなくても、それはそこにあるんだよ。眠っているだけで、きっとすぐに思い出せる」
「……眠っている……そうか。失くしたのではないから私はもどかしく思えるのだな。
、ありがとう。なんだか楽になった」
そう、失くした訳じゃない。
あった事実は変わらない。
だから、今持っていなくても寂しいとは思わないんだろう。
「マリーに元気がないとルーティが心配するよ」
「そうか。
も元気がないとリオンが心配するぞ」
「……」
思わず真顔で沈黙した。
そういう言われ方をすると純粋に心配してくれるのか考えてみるが……笑うしかない。
密かに複雑な表情を浮かべた
にマリーが微笑みかける。
「アクアヴェイルを出てから少し様子がお……」
「何を下らないことを話している」
「! ……リオン」
マリーの向こうに現れたリオンにマリーも驚いたように振り返る。
そうだ、更にその隣はリオンにあてがわれた部屋だった。
「聞こえていたのか」
その言葉には答えずただ肩をすくめて首を振る。
「この寒空にいつまでも外で会話しているお前らが信じられん。体調を崩すようなことがあれば置いていくからな」
つまりおしゃべりをやめて早く中に入れ、と。
それだけ言ってすぐに部屋に戻っていった。
「……リオンは意外に親切だな」
「そうだね。意外に仲間思いだよ」
マリーにも彼の皮肉は通用しない。
二人とも大人しく思いやりと受け取って凍えはじめた身を縮ませながら、休むことにした。
「おやすみ、マリー」
「あぁ、おやすみ」
「吹雪が来そうだな」
まだ昼前だ。
それなのにどんよりと暗くなり始めた空を見上げてマリーが呟いた。
風が妙に静かなのも気になる。
嵐の前、なのではないだろうか。
無駄に不安を掻き立てても仕方が無いので黙っていたが、
は前兆のようなものを感じている。
大きなエネルギーが蓄積され、まどろんでいる、そんな感じだ。
風が吹き出せばわかるだろう。
朝になっても昨日と同じ灰色の空の下、スノーフリアの町を出立したスタンたちはティルソの森へと入る。
さくり、と新雪を踏みしめる音だけがしばらく続く。
「雪ってきれいだけど……足元が怪しいよなぁ」
「あんた戦闘くらいしか役に立たないんだから、モンスターが出たらしっかりしなさいよね」
「戦闘くらいしかって……そういう言い方は無いだろ!?」
あはは、とルーティは聞く耳持たず。
モンスターより、兵士に見つかったらまずいのではないかとそちらの方が心配だ。
相変わらずの曇り空だが今日は雪が散るほどにしか降っていない。
足跡は消えないのでもう少し進んだら道を考えた方がよいかもしれない。
「しっ、誰かいるぞ」
すっかり森の中まで進むとリオンがその先にある気配に気づく。
ウッドロウがこの辺りにいるだろうことは知っていたので、
はそれだろうと踏んでいた。
「この辺りは既にグレバムの支配下に置かれている。様子を見よう」
挟み撃ちにされたらたまらない。
万が一の後方確認のためにマリーと
がその場に残ることになった。
「この辺りは……見覚えがある気がするんだ」
周りを見渡していたマリーが唐突に話し出した。
ティルソの森に入った辺りから妙にそわそわしていたことに気づいてはいた。
昨晩、不安は拭ったもののやはり心の奥底で感じるものは無視できないのだろう。
「あぁ、近くにサイリルっていう町もあるんだよね。そこに行けば何か思い出すかな」
「サイリル……ノイシュタットで散る桜を見たときに何か思い出したような気がした。あれは雪だったんだろうか」
「得意な料理はポワレだったもんね。あれ、雪国の料理だよね」
はひとつずつ、マリーの記憶に触れていく。
氷の大河を渡ることになればサイリルに寄る理由は無い。
きっかけがなければ記憶は戻らず惨劇が待っている可能性もある。
「昔、この森でも戦いがあったらしい。もしもその頃にこの辺りにいたのなら、何か思い出すきっかけもあるかもね」
「そうか。この森で戦いが……」
遠くを見るような瞳でふらふらと歩き出すマリー。
「マリー?」
「少しだけ、いいだろうか。遠くには行かない」
「いいよ、行ってきなよ」
それで記憶が戻るなら、些細なことだ。
マリーの背中を見送って、
は一人で舞い降る雪を見上げていた。
どれくらい経ったのだろう。
背後から声が聞こえた気がして
は振り返った。
スノーフリアからの道──ではない。
もう一度、耳を澄ますと騒がしい怒声がやはり聞こえた。
複数の人間の声。
こちらに近づいてきているものではない。
森の奥の騒ぎだった。
リオンたちが兵士と遭遇したのだろうか。
マリーのことを気にしつつ、雪の積もった茂みを掻き分ける。
大分近くなった騒ぎに目をやると肩にかかる銀髪の青年が足を引き摺るように道なき道を駆けていた。
「まさか……!?」
ウッドロウだった。その後方から声を張り上げているのは追っ手だ。
リオンたちが向かったのは逆の方角。
はわずかな行き違いが生じていることを理解した。
呼びに戻っていては、遅い。
は一度、道へ戻って雪の上にしるしをつけると再び森の奥へ掻き入る。
印にだけ気づいてくれればあとは足跡だけでも追ってきてくれるはずだ。
背後を気にしながらもウッドロウの逃亡劇から目を離さなかった。
次第に待機場所から遠くなっていく。
危機感を覚えると共にウッドロウと追っ手の距離は縮まっている。
遠目に雪の上には、赤い染みが落ちて見えた。
限界だ。
このまま、黙って見ていれば騒ぎを聞きつけたスタンたちが助けるのかもしれない。
しかし、残念ながら見過ごすこともできそうにもなかった。
は一気にウッドロウ側の茂みに移動すると、銃を手に雪原へと飛び出した。
追いすがる兵士とウッドロウの間に入って散弾を放つ。
突然の乱入者に追っ手の足は止まった。
「ウッドロウさん、逃げてください!」
「君は……?」
「スタンの仲間です。私が囮になりますから」
任せてください。などと言えるほど大口は叩けない。
だが、足止め程度ならできるはずだった。
「私のために、危険の中に残していくことなど出来ない」
「いいから! 私の来た足跡をたどって行けばスタンに会えます。呼んできてください」
「ダメだ、それなら私も応戦する」
「このままではいずれ二人とも捕らえられますよ!」
「し、しかし……!」
「くどい!」
の剣幕にウッドロウは意を決したようにうなずいた。
傷ついた体を引きずるように、背中を向ける。
それでもさすがに雪中は慣れているのか、姿を消すまでそう時間はかからなかった。
音だけが遠ざかるのを聞きながら兵士たちから目を離さない。
しかし、指先で小さく響いた空振る感触に
は動揺した。
しまった……!
仲間たちが追ってくることを祈りつつ虚勢と威嚇で兵たちを近づけまいとするが、散弾は二発放ったところで尽きてしまう。
アクアヴェイルで派手に使用したためストックは既に無かった。
スノーフリアのオベロン支社で補充する予定も、グレバム軍の占領により運搬船の入港は遅れていた。
しかし町には一度戻るだろうことは知っていたので、そのままにしておいたのだ。
まさか、その状態で単独で戦闘に巻き込まれるなどと思っていなかった。
スラッグ(単発)弾の入った弾倉に切り替えるが遅い。
三発目の空撃ちに気づいた兵士たちはあっという間に距離をつめてきた。
剣の射程距離に入る。
紫電を抜くが相手の数が多い。足止めなどといえなくなるのも時間の問題だった。
ウッドロウはスタンたちと合流できただろうか。
背後を詰められる前に
は転進に入る。
剣を振り抜く傍ら、残った単弾で一人ずつ落としていく。
しかし、ことのほか消耗が激しく疲労で足は思うように動かない。
いくら
が身軽でも多勢に無勢。加えて雪中の戦いはファンダリア兵の方が上手だ。
足をとられた瞬間、背中に激痛が走った。
まだだ。浅い。
振り向き様、銃を放つと血のついた剣を手にした男が吹き飛んだ。
そのまま
は踏みとどまる。
少なくとも正面を向いていれば見えない場所から切りつけられることなどない。
逃げるのはやめだ。
慣れないことをするから傷を負う羽目になる。
役割は足止めなのだから。
救援は必ず来るし、それまで保てば上出来。
噛み付くような視線で、紫電を握り返し
は向かってくる兵士たちと再び対峙した。
傷ついたウッドロウをルーティとフィリアに任しスタンたちが駆けつけた時、雪原は既に鮮血で染まっていた。
「
!」
複数の男たちに囲まれる姿をみつけてスタンが叫ぶ。
背後に剣を振りぬきざま、
はこちらに気づいたようだ。
リオンはそれより早く茂みを抜けると、兵士に向かって孤を描くようにシャルティエを一閃させた。
一瞬にして、悲鳴を上げて二人の男が後退する。
そこへスタンが気合と共に前衛に走りこみ、蹴散らす。
それを確認したリオンが振り返ると、
の手の内から紫電が滑り落ちるところだった。
「しっかりしろ!」
気が抜けたのか大きく揺れた肩を掴むとべたりと不快な感触が左の手のひらを濡らした。
膝を落とす
の体を支える。
その腕に添えられた手は、力なく冷たい色だ。
「弾……切れたの忘れてた……」
「おい……?」
「スノーフリアに……戻っ……補充しな……いと……」
何言っている。
こんなときにそんな先のことを考えている場合か。
ずるりと全身から力が抜け、倒れこむ。
「
……?
!」
「ルーティたちを呼んで来い! スノーフリアへ戻るぞ!」
は、引き込まれるような意識の端で二人の声を聞いた。
* * *
目を覚ますと暖かな色の木の天井が目に飛び込んできた。
昨日泊まった場所とは違う、見慣れない部屋。
スノーフリアの宿だろうか。
起き上がろうとして走った激痛に声も無く身を捩じらせる
。
思わず捩ったのが悪かった。なお痛い。
苦痛に顔を歪ませているとその様子に傍らにいたリオンが血相を変えて呼びかけた。
「おい、大丈夫か!?」
返事をしようと試みても、言葉がうまくつながらない。
歯をかみ締めて耐えるので精一杯だ。
右肩から背中にかけて、シーツに触れる感触に焼け付くような違和感を覚える。
声をかけてもどうしようもないと察したのかリオンは黙って見守った。
ようやく、心音が落ち着くと
は大きな溜息と共にリオンを見上げる。
「ウッドロウは?」
視線だけ動かして返事を待つ。
一度落ち着いてしまえば、触発する動きをしない限り激痛は襲ってこない。
の声はつい今しがたの苦しみようがウソのようにしっかりしていた。
「別室で休んでいる」
何時もどおりの短い答え。
しかし、それでは言葉が足りないと気づいたのだろう。
リオンは続けた。
「安心しろ。怪我はルーティの晶術で癒した。まだ意識を失っているが問題は無いはずだ。
もう少ししたらお前の方もなんとかする」
おそらく先に合流したウッドロウの方に術を注ぎ込んでしまったので、
まで治癒が間に合わなかったのだろう。
それは仕方の無いことだ。
とにかくルーティが来るまで、絶対安静にしていよう。
半端でなく痛むのでミリほども動かしたくない。
『
、大丈夫? 痛くない?』
「馬鹿なことを聞くな、シャル」
痛まないわけ無いだろう。
言いかけて口をつぐむ。その代わりに口をついてて出た言葉は
「お前も下らないおしゃべりでこれ以上消耗させるな」
だった。
カタカタと窓がゆれる音が嫌に大きく聞こえる。
風が出てきたのだろう。
外を見ると、暗い色。
時間はそんなに経ったのだろうか。
「リオン」
「何だ」
「今、何時?」
「……四時だ。夕食になったら起こす。それまで少し眠れ」
もう一度、言われて
は大人しく瞼を閉じた。
風の音が聞こえる。
やはり嵐が来るのだ。
それでも部屋の中は暖かくどこか穏やかな空気で満たされていた。
ルーティが
の元へやってきたのは夕食の時間をとうに過ぎてからだった。
時間には起こすと言ったリオンは結局
を起こさず、自然に目を覚ましたのがその時間だ。
寝ている間に施術をされかけ、目を覚ました時には傷はさほど痛まなくなっていた。
「……あ、ごめんね。起こしちゃった?」
「いや……いつからこの部屋に……?」
背中越しに振り返り、いきなりルーティとリオンの姿があったことにやや動揺する。
二人が部屋に入ってきたことに、しかも為すがままだったらしいことに気づかなかったのが何やら少し、不覚に感じて。
「三分も経たないわ。背中向けててくれたからそのままちゃちゃ~と直しちゃおうかと思って」
「口を動かす前に手を動かせ」
「わかってるわよ~ほら、
。もう少しだから大人しくしててくれる?」
そりゃ大人しくはするけどさ。
なんとなく釈然としないまま背中を預けると、アトワイトの晶術がやわらかい波動となって感じられた。
ゆるゆると暖かく伝わってくる癒しの波動。
あまりにも心地よくてうっかりうとうとし始めたところにルーティの元気な声が告げる。
「はい! 終わりっと」
『まだ起きちゃダメよ、体力が回復するまでは大人しくしていなさいね』
医者の口調で、アトワイトが釘を刺す。
痛みが無いだけマシもいいところだ。
「ありがとう。ルーティ、アトワイト」
二人も続けて施術ではルーティも疲れたことだろう。
そのタフさは見習いたい。
「いいのよ。それより大変だったのよ。合流したとき血まみれで意識失ってるし。スタンも慌ててたけどリオンも血相変えたの、初めて見たわ」
「何を言ってる。お前の方が遥かに動揺していただろう」
「当たり前じゃない! ウッドロウで晶術は使い尽くしたし、血止めが精一杯だったんだから。それにあの寒さでしょ? ほんと、どうなることかと思ったわ」
本気で心配してくれるルーティは好きだ。
仲間として大事に思ってくれているのがわかりやすくて嬉しい。
「……何笑ってるの」
「いや、心配してくれてありがと」
「お前、死にかけたんだぞ? わかってるのか?」
呆れた視線を投げかけるリオン。
正直実感はない。
死んでしまえば何も判らないだろうし、どうにも生と死の境界が曖昧で。
そのくせ落胆することも思い浮かばない。
結果オーライということで。
ただ、倒れる前に感じた寒気は未だに残っていた。
流れてしまった血は晶術では戻らないのだ。
暖まりきった部屋の空気がとてもありがたい。
「もう少し、命を大事にしろ」
「「………」」
何か耳を疑うような発言を聞いた気がして
とルーティは思わず沈黙した。
「何だ」
「リオンからそんな言葉が聞けるとは……」
「馬鹿か。無茶をすれば誰に迷惑がかかると思っている」
「あぁ、そういう意味──」
「じゃ、ないでしょ! ちょっとあんた。いい加減、心配ならそう言えばいいでしょ!」
「誰が心配だと言った! 現にそのせいでお前ら全員動揺してただろうが! 二人も抱えてそんな状態でモンスターにでも襲われたら一体どうなると思ってるんだ!」
あ、そうか。
ウッドロウも気を失っていたんだから……と、あれ?
そうすると私を運んでくれたのは……
『二人ともいい加減にしなさい!』
騒ぎ立てた二人にアトワイトが言うとぴしゃりと言い合いがとまった。
うわ、何気にすごいねアトワイト。
怪我人の横で騒ぐな!と言わんばかりの気迫はいつにない。
は二人のやり取りを聞きつつものんきに自分の思考に走っていたが、見事な制止っぷりに思わず感嘆した。
『ルーティ、あなたまだ気力満々ね。もう一度ウッドロウの所に行ってみて』
「え~? まだ晶術かけるの?」
『様子を見るだけよ。連れて行ってくれればいいわ』
ソーディアンというより今日のアトワイトは医者そのものだ。
怪我人を前に珍しく主導権をとりつつアトワイトはルーティを部屋から連れ出した。
呆れたような視線でもって送り出したリオンが残る。
それからしばらくして。
一度部屋から出て行ったリオンはなぜか戻ってきて、壁際のソファに腰をかけた。
そのまま、持参した書籍に視線を落とす。
用はなさそうだが、何も言わないその様に
は疑問符を浮かべたまま特に聞き返すことも無かった。
その代わり。
ふと、初めに立ち返って
は疑問を投げかける。
「リオン……ルーティが来る前に、起こしてくれるって言ってなかったっけ?」
リオンは
が寝顔を見られるのを嫌いなことは知っている。
は
でリオンが眠りを妨げないよう気を使ってくれたのだろうとは気づいている。
が、言わずにいられなかった。
ついでに言うと人と一緒の部屋で寝るのも実は苦手だったりする。
リオンは非難交じりの疑問に、視線を上げもしないで言い放った。
「起こしに来たが起きなかったぞ」
「く……」
そう言われればそれまでである。
大抵は自力で目覚めるし、起こされて起きないなど経験上、有り得ないのだが。
リオンがウソを言っているのも明らかだ。
何か釈然としない。
「せめて個室を取ってやったんだ。感謝しろ。そのおかげで僕は大部屋だぞ」
「あぁ……だから喧騒を避けてここに避難しているわけね……」
先ほどから本を片手に居座っているのがどうにも意味不明だったがようやく合点がいった。
ふぅ、と溜息をついて
はもう一度横になる。
「そんなに大部屋が嫌ならここで休んでいけば? そのソファ、エキストラ用でしょ」
驚いたように顔を上げるリオン。
女と二人で同じ部屋に泊まれとは何を考えているのか。
しかし、他意があるはずも無い。
再びうとうとし始めた
は、既に枕につっぷしたまま話をする気はないようだった。
やれやれ、と小さく首を振って再び本に視線を落とす。
風が吹き荒れる音は遠い。
「昨日は夕方、嵐みたいで、夜中は収まってて……」
「あぁ、そういったことを繰り返してハイデルベルグはやがて春になる」
まだまだ先の話だ。
ウッドロウは積もった雪などどうということはない、というように微笑んだ。
一行は、吹雪が峠を越えるのを待ってスノーフリアを出発した。
ハイデルベルグへは西の森を抜けサイリル経由で向かうのが通常だが、リオンたちは北へ向かっている。
グレバムの軍が展開しているため、そのルートを選ぶのは無謀だった。
そこでウッドロウが打診したのが北の山脈から街に潜入するルートだ。
洞窟から凍結した川をさかのぼってハイデルベルグの裏に回る。
この国の民でもなければ思いつかないルートだった。
問題といえば道に迷えば凍死は免れないだろう過酷さであるがそれもウッドロウがいると心強い。
不案内なスタンたちはウッドロウに先頭を任せて雪原を進んだ。
洞窟を抜けて大河に差し掛かると、雪は止んでいて見事な青空が覗いていた。
ひらすら平らな氷原は見通しがいい。
河を渡る人影を安易に発見されることを心配したが、対岸の森はまだ深そうでウッドロウの言うように迅速にわたってしまえば問題はなさそうだ。
しかし、やはり寒さは耐えがたかった。
「さ、寒い……」
誰もが思っていることを安易に口に出したスタンにすかさず非難の視線が集う。
さすがに鈍感なスタンもこれには閉口した。
「私もこれは苦手だな……」
「苦手とかいう程度じゃないでしょ!? ちょっとウッドロウ! あとどれくらいかかるの……うっ……!」
思わず声を張り上げたルーティがゲホゴホと咳き込む。
「……そんな大声で叫んだら……肺がやられそうです」
『まぁこれほど空気が冷えていればな』
弱々しい
の突っ込みに寒暖にひるむ必要が無いソーディアンの返事は妙に晴れやかだ。
『これだけ晴れていると逆に冴え冴えしている感じね』
「爽やかそうに言うな」
間の後に「?」という表情でリオンを見返したマリーに
は今の会話を通訳(?)する。
「あぁ、服越しに話せばどうってことはないんだ」
とマリーは防寒服の襟を口元に持っていってみせる。
道理である。
手馴れた物の言い方にウッドロウは首をかしげて微笑んだ。
「貴女はファンダリアにいたことがあるのですか」
発言だけではない。
何度かモンスターとの戦闘にもつれこんだが彼女の足元はおぼついていないことに気付いていた。
雪に慣れないスタンなど、何度も危うく足を踏み外してバランスを崩している。
その言葉にマリーの表情が考え込むようにやや沈んだ。
「……そうなのだろうか」
「?」
「ちょっと王様! マリーは記憶喪失なの。滅多な言い方しないでよ!」
相棒から笑顔が消えてしまったのでルーティが咎めるように怒鳴る。
直後に再び咳き込む羽目になった。
「いいんだ、ルーティ。そうなのかもしれない。私は、ここへ来てから……何か懐かしい感じがするんだ」
驚いたようなウッドロウに微笑みつつ、目を細めて雪原を見る。
それがもっとどこか遠くを見ているようで、ルーティは僅かに心を痛ませた。
「言っておくが
も記憶喪失なんだからな」
「えっ」
「あ、ごめん。無神経だったね」
「それは元からだろうが」
「あんた私にケンカ売ってんの……?」
うっかり三度叫びそうになりつつ堪えたルーティたちを尻目に今度はウッドロウの視線が
に向く。
返事をはさみそこねた
は苦笑と共に視線だけで振り向いた。
「私はほっといてくれて構わないから」
という様が暗くもなくいじけてもいないのでウッドロウはやや面食らった顔をした。
「それよりマリー。ティルソの森はどうだった?」
せっかく何か手がかりがつかめそうなのにここで途絶えさせては勿体無い。
は話を再び元に戻す。
「あぁ、あの時はすまなかった」
「一度謝ってくれたんだから二度謝る必要はない」
結果的に単独で置き去りにしたことが
に怪我を負わせた。
後ろ暗くないわけがない。
しかし、本人は全く気にしていないのに気を使われているとこちらも気が詰まるようで……ちょっと困る。
それが伝わったのかマリーは素直に自分の話を始めた。
「何か……戦いがあったといったか。そういわれれば確かに思い出せそうな気もする。それが何だかわからないのだが…」
「ティルソの森……あぁサイリルにも自警団が組織されたあの戦いか」
「知っているのか?」
「ちょうど十年ほど前だ。ファンダリアは動乱の最中にあって、多くの血が流れた」
ウッドロウもまた遠い目をする。しかしそれは懐古というより苦痛に近い。
「十年前……」
「どう? 何か思い出せそう?」
渋い顔をしたマリーに思わず訊くルーティ。
「知っているような……けれど、もっと近いことのような気もする」
「じゃあティルソの森に限らず、その近辺で他に大きな話は?」
「ある。あれは二年前だ。サイリルの町が何者かの襲撃によって大火に見舞われた」
「!」
「町の人々はティルソの森へ避難したが……防戦にあたったものはことごとく殺されたと言うことだ」
「殺された……」
明らかに何か手繰り寄せるような顔で、しかしどこか呆然ともするマリーを前にルーティが苛立ったような声を上げる。
「生存者は? いないの」
首をふるウッドロウ。
マリーの様子に誰もがその事件に関係あるのでは、と憶測を浮かべずにいられない。
「じゃあサイリルの町へ行ってみたら……何か思い出すかも」
「そんなことをしているヒマがあるか。自分の立場をわきまえろ」
あまりにも先行きを見越さないスタンの笑顔の発言もリオンによって一蹴される。
しょげてしまったスタンにマリーは微笑んだ。
「スタン、いいんだ」
「マリーさん……」
「私用は後だ。……お楽しみもな」
「あぁ、全て終わったらいけばいい。それだけだ」
微妙なニュアンスを含んだ発言に思わず視線が集まる。
当の本人は背中を向けるばかりで表情は伺えないが……
「ふふ、私は皆に心配をかけてばかりだな」
呟くように言った言葉にスタンの口元にも小さな笑みが浮かんだ。
意外にもハイデルベルグの街は何一つ破壊されてはいなかった。
襲撃の痕跡すら無いことにやや拍子抜けしつつ奥へと進む。
戒厳令が出ているのだろうか。
さすがに人影はなかい。
それでも兵士だけは巡回しているのだろう。
大通りには足跡がいくつも残されていた。
「どうするの?このまま強行突破?」
ソーディアンの力を用いれば不可能でもないがその先に待っているものを考えると得策ではない。
リオンはウッドロウを振り返った。
「いや。気付かれずに潜入するルートはないのか?」
「町の東に地下通路がある。古くからの隠し通路だからやつらも気付いていまい」
無言で頷く。
慎重に行く先々を伺いながらスタンたちは城の要壁へとたどり着いた。
が。
「お前たち、こんなところで何をしている!」
「!」
声に思わず振り返ると兵士が数名駆け寄ってくるところだった。
「くそっ」
「待ちたまえ!」
ディムロスを防寒着の下から引き抜こうとしたその手を止めるウッドロウ。
「な、どうしたんですか」
「奴らは私たちが何者か気付いていないようだ。騒ぎを起こさずに済むならそれがいい」
……お前、自分が王様だってこと忘れてないか?
は心の中でひそかにつっこんだが、相手も生粋のファンダリア人ではないのだろう。
一応フードをかぶってなんとなく目立たないようにはしているがこんな長身、色黒で目立つ男に気づいていない。
あっというまにとりまくとその後ろから悠然と男が現われ前に立つ。
「お前たちはこの町の人間か? 何をしている」
逃げれば追ってきたのだろうが、大人しく取り巻かれたので相手も乱暴に扱う気はないようだった。
「さ、散歩ですっ散歩!」
……スタン。
この状況で散歩はないだろう。
かといって適当な理由がないのでやっぱり黙っている
。
逆にアホな応えが良かったのか男は一同をこの町の人間と認めたようだった。
「そうか。だったら城の近辺をウロウロするのは関心せんな。今は何に巻き込まれても文句は言えんぞ」
「は、はい! すぐに帰ります!」
不思議なことにこう慌てふためくスタンを見ていると情けないほど一般庶民に見えてくるのはなぜだろう。
なんとなく遠い目で考えてからふとリオンを見ると何か言いたそうなのを堪えているようだった。
……うまくいけば御の字なのでやはり何も言わないが。
愛想笑いをしているスタンを最後に踵を返して、もと来た道を返ろうとする。
しかし、マリーだけはそこから去ろうとしなかった。
「どうかしたのか?」
男が尋ねる。じっとみつめていたマリーはふいに剣を抜いた。
取り巻いていた兵士たちは気色ばむ。
「貴様……!」
「待て」
マリーはただ剣を差し出しただけで殺気はない。男は理解したのかマリーの言葉を待った。
「お前、この剣に見覚えは無いか?」
差し出された剣を見た男の顔色が変わった。
「その剣は……私と同じものか? なぜお前が……」
「ダリス、私だ。わからないのか?」
「! マリーさん、記憶が……!?」
驚いたように振り返っているルーティたち。
スタンの声に兵士の顔が一瞬仲間たちを流し見る。
その視線が、ついにウッドロウで止まった。
「……こいつ……」
「!」
「ウッドロウ・ケルヴィンだな!?」
「まずいっ散れ!」
同時に駆け出す。しかしやはりマリーが動かないことに気づきルーティが、続いてスタンが足を止める。
「ルーティ、何やってるんだ」
「あんたマリーを見捨てる気!?」
「……くそっ」
「スタンさん、ルーティさん!?」
連鎖するようにフィリアが振り返る。
既にスタンたちは兵士に取り囲まれていた。
「フィリア、俺たちのことはいいから逃げろ!」
「ち、何をやっている!」
思わず足をとめ、振り返ったリオンの腕を駆け様に掴んで
は、走った。
「リオン、足を止めたら捕まる」
「わかっている!」
逃げるのは嫌いだしまして仲間を置いていくなど考えられないが彼らがこの先、無事だろうことは知っている。
だとしたら足手まといになるより救出に回る側の手が多いに越したことはない。
知っている故の選択を時々忌々しくも思いながら、
はリオンと共に兵士たちの手から逃れた。
散開することで追手を撒いたリオンたちはなんとか合流していた。
マリーを気にかけたスタンとルーティは足を止めたために行方が知れない。
身軽なリオンと
よりフィリアのほうが心配だったが地の利のあるウッドロウが引き受けてくれたのであっさり逃れられたようだ。
「でも、スタンさんたちが捕まってしまいましたわ」
「全く。手間をかけるやつらだ。ウッドロウ、行き先はわかるのか?」
手間をかけるといいつつ救出を真っ先に考えるリオン。
自覚の無い思いやり発言に思わず素で笑いを堪えた
。
それには気付かれないまま話は深刻なまでに進んでいる。
「東の棟に兵士の詰所がある。その地下に一時的に投獄しておく牢があるからそこだろう」
「よし、警戒が厳しくなる前に行くぞ」
ウッドロウが通用口から導き、潜入する。
詰所には兵士が五人六人と人影があったが、リオンとウッドロウの二人で気絶をさせて地下へ降りるとすぐにスタンとルーティの声が聞こえてきた。
「誰かさんのせいで前にも牢に入れられたことがあったよなぁ」
「な、何いってんのよっあれは……ほら……っ私のせいじゃないわよ! だいたいあの時は……あのクソガキが悪いのよっ」
ぎくり。
いきなり聞こえた責任転嫁の暴言に仲間たちの間にいらぬ緊張が走り、リオンの手にはすちゃりとティアラの電撃スイッチが握られる。
は思わず無言でその手を止めた。
苦笑で首を振るとリオンは憤然としたまま階段を下りて牢へ向かう。
「助けに来てやったと思えばこれか! まったく、馬鹿どもが…」
「リ、リオン」
まさかこれほど早く来てくれるとは思っていなかったのだろう。スタンとルーティは噂をすれば影という言葉を身にしみて感じているに違いない。
強張った二人をよそにリオンは一階で手に入れたカギで牢を開ける。
「あの女はどうした?」
「ダリスとか言うのに連れて行かれたわ。追って!」
「外に出た気配はなかったから……」
「上、ですわね」
その結論を待たずにルーティが駆け出す。
後について階段を上るとすぐにその部屋はわかった。
「確かに私は妻を娶っていたが…妻は死んだ」
話はすでに核心に及んでいるようだった。
漏れてくる声に足をとめて、踏み込むタイミングを計る。
部屋にはマリーとダリスの二人しかいないようだ。
何か……盗み聞きしてるみたいでいやだなぁ……(盗み聞きなんですが)。
「私は生きている。お前は記憶を封じられているだけだ。私の記憶をお前が封じたように」
「私の記憶が封じられているだと? 私はグレバム様にお仕えして既に久しい。その間、無くした記憶などない」
「いいや。私はお前に会って全てを思い出した」
真っ向対立するように沈黙が降りたが扉の向こうに仲間たちが居るとも知らぬまま、臆さず口火をきったのはマリーだった。
「私は十年前の戦いでお前の元へ転がり込み、共に暮らすようになった。だがお前は二年前、サイリルが大火に見舞われたときに私の記憶を消して、一人戦地に赴いた。そして、それきりだ。
最後の二人きりになっても戦い抜くと誓ったものを。それを覚えていないと言うならお前の記憶など、所詮仮初のものでしかない」
「そんなことがあるものか! 私は一年前から、グレバム様の元に……」
マリーの言葉に苛立ったように声を荒げたダリスはそこまで言って、自らの言葉に沈黙した。
困惑した間が返ってくる。
マリーが小さく笑う声。
「一年前…? 私は……ずっと……」
「ふふ……偽りの記憶にはつまらぬ矛盾が潜んでいるものだな」
二人の会話はまだ終わりそうになかった。
一方で
は階段の方をしきりに気にしだす。
そろそろ下の状況に他の兵士が気付いてもいい頃だ。
ひそかに銃を抜いて階下を伺える場所まで戻ると騒ぎはすぐに聞こえてきた。
まだ、屋外をうろついているのだろう。
声が少し遠いし、それほど慌てた様子がない。
「来たよ!」
だが確実に近づいているそれを確認すると
は警告だけを与えて仲間たちのもとへ駆け戻った。
「上へ!」
ウッドロウがダリスのいる部屋の扉を開ける。
階段はその奥にある。
突然の来客にダリスはどこかぼんやりした視線を投げかけたが、反射的に剣は抜かれた。
同時に再び元の精悍な表情に戻った彼は、その先へ負かり通してくれそうにもない。
「ちっ」
「ダメよ……!」
リオンがシャルティエを抜くとルーティが制止する。
利き手にすがりついたルーティに気をとられた一瞬のスキをついてダリスが切りかかる。
しかしその刃もまた唐突に動きをさえぎられ動揺するように大きく揺れた。
「ダリス! やめてくれ!」
「…っうるさい!」
剣が横薙ぎに振り払われる。
マリーは悲鳴を上げる間もなく血しぶきと共に後ろに大きく倒れこんだ。
「マリーさん!」
「あ、あなたは……なんということを……」
切り捨てた後に、どこか呆然とそれを見下ろすダリス。
毒気を抜かれたように殺気は消えていた。
「わ、私は……」
「マリー! マリー!」
はじかれたようにルーティが叫びだす。
は我を忘れたようにマリーの名を呼びつづけるルーティの肩をつかんで引き剥がした。
「ルーティ、しっかりして!」
「だ……ってマリー……が……」
「だから! 回復の晶術が仕えるのはルーティだけなんだよ!?」
両肩をつかんで正面から言うと一瞬呆けたが、マリーを見て、それからルーティはアトワイトへと手を伸ばした。
「アトワイト、お願い……!」
回復の晶術をかけはじめるルーティ。
それを見届けて部屋の外へ出る。
再び階段の上まで来ると丁度、兵士たちが上がってこようとしているところだった。
ガウンッ!
「!?」
銃声にスタンたちが振り返る。
すぐに
の散弾が発砲されたことを知って、駆けつけた。
せめて治癒が終わるまで時間稼ぎが必要だ。
「スタン、ディムロス。晶術で牽制できる?」
「『任せてくれ』」
今から銃弾を消耗するのも心もとないので頼もしい返事をくれたスタンとディムロスのコンビに交代する。
第二陣を炎で威嚇したところでウッドロウから声がかかった。
すぐさま駆け戻ると相変わらず意識は失ったままだが、なんとか持ち直したらしいマリーをダリスが背負い一行は屋上へと向かった。
風が吹き上がる、そこは当然のごとく行き止まりだった。
「飛び降りるぞ」
「えぇっ!?」
「雪がクッションになってくれるはずだ」
リオンの思い切りのいい発言にスタンが躊躇する。
足踏みしそうな勢いに
はよほど突き飛ばしてややろうかと思ったがそれで怪我でもされたら話にならないので何とか踏みとどまった。
代わりに言葉で背中を押してやる。
「スタン。突き落とされるのと自分で飛び降りるの、どっちがいい?」
真顔。
「五秒だけ猶予をあげる。3、2、1……」
「うわぁっ行くってば!」
カウントにあわせたように彼は自ら飛び降りた。
それを見てから
も雪の中に身を踊らせる。
幸い誰も怪我はしなかったようだ。
「あのさ……一応聞くけどオレが自分で飛び降りなかったら……突き飛ばしたりしないよな?」
「したかもね」
あっさり。
不意打ちでも気構えが出来てれば違うはずだ。
「突き落としたいところを我慢したんだから文句言うな」
「う……」
道なき道をまがりなりにも駆けながら飄々と突き放した様にウッドロウから苦笑が漏れた。
しかし、ふいに
が立ち止まる。
「どうしたの!?」
「ウッドロウ、通路の入り口はこの先なんだよね」
「あぁ、この林の奥だ」
「じゃあ水路を使っていける?」
ウッドロウの視線が右へ流れた。
茂みの向こうには水量の多くない水路がチロチロと音をたてて流れている。
それから真顔で向き直って頷いた。
彼は
が何が言いたいのか判ったようだ。
「この先は水路も分岐している。うまく使えば追跡をかく乱できるな」
「あ、そっか……足跡が……」
思いっきり新雪についてしまっている。これでは追ってくださいと言わんばかりだ。
「じゃあどこか適当な場所で茂みにむかって足跡つけて……小細工でもしておいてね」
「おいてね、……って
は?」
「私は下流に行く。必ず後から行くから」
「囮になるつもりか!?」
「ダメだよ! 危険すぎる!」
「話してるヒマはないよ。じゃあ後でね!」
返事も聞かずに身を翻す。
水路を飛び越えるとすぐに向こうの茂みに消えていった。
「さぁ、我々も……!」
「でも……一人だけ置いてくなんてできませんよ!」
「騒ぐな。僕が行く」
「えっ?」
ごねるスタンを静かに制す。リオンはやれやれとばかりに頭を振った。
「お前のように鈍足が囮にむくか?
と僕なら奴らより早い。終わったら僕らも水路を使う」
囮になるなら追っ手を出し抜く頭と足の速さが必要だ。
スタンには明らかに不向きである。
というかマリーにもルーティにもフィリアにも不向きなのだから話にすらならない。
「わかった……まかせるわ」
「お前たちこそヘマするなよ」
言い残してリオンも背中を向ける。
水路に乱れ入る水音は、やがて遠くなっていった。
二人が揃って地下通路の入り口に着いたのは、それから十五分ほど後だった。
一見小さな洞窟のようにもみえる小さな崖の亀裂の近くに、スタンが立っていてそわそわしている頭上に声が降る。
「スタン!」
見上げると
とリオンは身軽に彼の前に降り立った。
「よかった、無事だったんだな!」
「当たり前だろ」
「待っててくれたんだ、ありがとう」
三者三様に言葉を交し、中へと入る。
外気ともまた違うひんやりとした空気が頬に触れた。
「追っ手はどうだった?」
「それがねぇ……」
スタンの質問に
がなぜか苦笑を浮かべる。その視線がリオンに流れた。
「いざ確認したら数が少なかったからその場でしとめておいたぞ」
「仕留めたってお前……」
「大丈夫。足止め程度だから」
この二人の足止めってどんなものなのだろうか。
立ち直って後で追いつかれるような足止めの仕方はしてないんだろうな。
そう思ったらちょっと怖くなったスタン。
「あの分なら後続もあそこでひっかかるよね」
だから何をしたんだろうと思いつつとうとう訊けなかった。
……いつのまにか表現が囮から足止めに変わっているところもポイントなのだがスタンはそこまで気付いていない。
「マリーの様子はどうだった?」
「うん、ルーティの晶術でなんとかもちなおしたから……大丈夫だと思う。でも今の状態でつれて歩くわけに行かないから……ダリスさんと一緒に残ってもらうことになったよ」
「それがいいね」
スタンはこの先にハイデルベルグの臣下が身を隠していたこと、二人を彼らに任すことになったことなど経緯を説明する。
その上で、ウッドロウはグレバムの占拠する時計塔を、裏から潜入して不意をつくルートを推奨しているらしい。
「相手は神の眼だ。ふいをついてどうにかなるとは思えんがな」
「それでもモンスターだの兵士だの相手にするよりマシだよ」
いや、たぶんモンスターは城中徘徊していると思うよ、スタン。
それでも地の利のある人間に案内させるのが無難だろう。リオンもそれ以上何も言わなかった。
部屋のように区切られたフロアに入ると、ハイデルベルグの兵士たちと、簡素な寝床に横たえられたマリーの姿があった。
「良かった、二人とも無事だったみたいね」
晶術の使用と慣れない雪中の疾走でルーティは疲れた笑顔を向ける。
「そっちこそ。マリー、大丈夫みたいだね」
「……すまない、礼を言う」
ダリスが短く申し訳なさそうに頭を下げた。
構うなとそれだけ告げる横でリオンがルーティを見た。
「いけるのか?」
「大丈夫。……といいたいところだけど、ちょっと休ませてよ」
無言でうなずくリオン。
先を考えると急ぎたいところだが、万全の体制で臨まなければ足元をすくわれることになる。
ルーティの回復晶術はこの先、嫌が応でも必要になるだろう。
「リオンさんたちこそ……少し休まれた方がいいですわ」
「あぁ、そうする」
いずれルーティが回復しないことには進めないのだから。
がオーバーコートを脱いでなけなしの炎に手をかざしているとルーティが小さく呼んだ。
「ねぇ、
」
「ん?」
「ありがと」
「?」
とっさに言われたことがわからずじっと見返すとルーティはちょっと照れたように俯いた。
「マリーのこと。あんたが言ってくれなければ、晶術だって使うこと忘れてたわ。……間に合って、良かった」
「うん、良かったね。……大事な、相棒だもんね」
一瞬目を大きく見張ったがルーティはうん! と明るい笑顔を見せてくれた。
らしくない殊勝さが、たまにはいいだろう。
「さ、後はダリスに任せて……私たちも気合入れて行くわよっ!」
「勝手に仕切るな」
後方に憂い無し、といったルーティが宣言するとスタンたちは揃って腰を上げた。
「ふ~ん、こんなとこにつながってんのね」
隠し通路から出た先は地下牢の一角だった。
お約束だけど……脱走を助長するようなところに隠し通路作るのはどうなのだろうね。
何の疑問も抱いていない城の主の背中を追いながらどうでもいいことを考える
。
上の階……おそらく一階のホールだろう、見通しのきく場所へ出て眉をしかめた。
誰も居ない。その違和感。
「どういうことだ……?」
衝突は避けての潜入を試みるつもりではあったがあまりにも想定外だったのだろう。
しん、と静まり返った気配の無さにリオンが呟く。
一見できる場所に人気がなくても音や空気でわかるものだ。
それが全く感じられなかった。
「サイリルの方は配置が厳重だ、って言ってたけどまさか皆そっちに出払ってるなんてことは……ないわよね?」
何かよからぬ不安を覚えながらもルーティ。
その理由は進むにつれ明らかになった。
原因はふたつ。
「何よ……これ……」
その部屋に踏み入れた瞬間、足をとめた各々の顔に嫌悪が浮かぶ。
眼前には倒れ伏した兵士の姿があった。
しかし、誰も彼も顔色は土気色で、生きているとは思えない。
それが折り重なるように無造作に床に転がっている。
奇妙な光景だった。
『坊ちゃん、多量のレンズ反応があります』
「レンズ反応?」
シャルティエの声に視線が集まった。
まさか、と思いつつ倒れ伏す一人に近づいてシャルティエをかざす。
『間違いありません。埋め込まれてますね』
「まさか……人間をモンスターにする気なのか!?」
ウッドロウが有り得ないとばかりに声を上げた。
『残念ながらその通りだろうな。神の眼と古の技術を用いれば不可能ではない。我々がそこここで相手にしていたモンスターもこの人間の慣れの果てかも知れん』
「そんな……」
ディムロスの言葉にフィリアが両手で口を覆ってふらりと後ろによろめく。
その背中を思わず支えて
はリオンとウッドロウへ視線を流した。
「だったら早く通り過ぎるべきだ。起き上がって襲い掛かられてきたら……遅いよ」
胸騒ぎに忠告すると二人は頷く。スタンはこのまま放っておくのかと顔に出していたが、どうしようもないことも理解したのだろう。
気にしながらも駆け出した。
「許せない……命をこんなふうに使うなんて」
『神の眼が悪用されればこんなことはささいなことにすぎない。スタン、何としても止めてくれ』
「わかってる……!」
フロアを抜けて更に上階へと踏み入る。
相変わらず不気味なほどの沈黙だ。
時折、モンスターは襲ってくるがやはり人影はなく、それだけだった。
「大丈夫か?」
いよいよ時計台も近くなりひと戦闘を終えたところで息を整えながらリオンが
に声をかけるとスタンたちも視線を集わせる。
「何が?」
「お前、当てられてるだろう」
これに首をひねったのはスタンだった。
はとぼけるが心なし表情が固い。
それに気づくか気づかないは微妙なところだが、ルーティには何を言っているのか通じたようだった。
ルーティが察するくらいなのだから
にもわかっていないはずがない。
「何の話?」
が答えないとスタンがついに聞いた。
今度は呆れた視線がそちらに向かう。
「……お前はこのプレッシャーを感じないのか?」
「? プレッシャーって?」
「……神の眼の放つプレッシャーだ……」
ほとほと能天気ぶりに疲れたようにリオンの声が低くなった。
言いながらもスタンが何も感じてないことはもうばっちり理解している。
「兵士たちが見当たらないのはこれも影響しているんだろう。……これだけ高圧的な中、わざわざその核に近寄ろうとする奴は……よほどの馬鹿か鈍感だな」
「それって遠回しにオレのこと言ってないか……?」
「それだけ大物と言うことだよ、スタン君」
えらいフォローのお言葉だ。さすがに複雑な顔をしたスタンに
の口からも溜め息が漏れた。
『お前たちマスターはともかく……彼女やウッドロウまでは守ってやれん。無理はしない方がいい』
「私のことなら大丈夫だ。勝手知ったるなんとやらだからね。それより……」
「平気。要は気の持ちようでしょ」
ただでさえ、
は気配の変化に敏感だ。
顔色をほとんど変えないから理解は得難いがおそらく一番始めに気づいてずっと感じてきたことだろう。
それでも笑う余裕はあるのだから問題ないと捉えるしかない。
「スタンを見ていたら馬鹿らしくなった」
「……よかったな、お前の能天気さが初めて役に立ってるようだぞ」
「能天気能天気言わないでくれよ!」
スタンの反論など聞いていない。
リオンはふいっとマントを翻して何事も無かったかのようにまっすぐな廊下を進む。
苦笑と共に、ウッドロウたちも続いた。
「でも……これじゃあ時計塔の裏からふいうちしても意味がない気がしない?」
「あぁ、おそらく気づいているだろうな」
沈黙の城内での、戯れの小競り合い。
モンスターを放っているのもまるでゲームを楽しんでいるようだと思えてならない。
神の眼を掌中に収める余裕だろうか。
こうなると裏をつくのも馬鹿馬鹿しくすら思えてくる。
「小細工は無用だ」
予定を変更して、その足取りはまっすぐに時計塔へと向けられた。
道案内はすでに必要ない。
プレッシャーの漂う方向へ進めば否応なくたどり着く。
すでに神の眼の波動は、肌で感じられるほど強く、空気を振動させていた。
六人の歩調は、自然に速度をゆるめ、だが踏みしめるように着実に近づく。
鼓動の音と脈動する神の眼の波動が重なったその時、階段は途切れ、視界は開けた。
「よくぞ来たな」
巨大な円形の水晶体、中央に紫の光の遊色がうねるその前にグレバムが待ち構えていた。
その手にはイクティノスと思しき細身の剣が握られている。
「ありがちな出迎えのセリフ、ありがとねっ」
ガウンっ!
予告なくスラッグ弾が発砲される。
いつもは後方に控える
から躊躇なく放たれたそれにスタンたちは驚いたが、グレバムの目前でそれは見えない壁に弾かれた。
やっぱりね。
の口元はわずかに笑みを形どったが目は笑っていない。
『エネルギーシールドだ。奴は神の眼の力で守られている。……生半可な攻撃は通用しないぞ』
ディムロスが人間だったら眉を顰めて息を殺す姿が見えたろう。
あれのおかげで千年前ソーディアンは神の眼を破壊することができなかった。
おこぼれとは言え、その力をまとっているなら銃が効かないのも道理だ。
「ふむ、物珍しい土産だな。それは旧時代の遺物か?」
余裕の表情で一段高くなった場所から見下ろすグレバム。
忌々し気にリオンの眉がひそめられたが彼は次の瞬間鋭利な光を瞳に宿して攻撃に転じる姿勢を見せた。
「ふん、土産ならいくらでもくれてやる!」
晶術が発動される。それが戦闘開始の合図になる。
地の晶術は、磨き上げられた床を大きく抉り取りグレバムに牙を剥いた。
しかし、それではグレバムは傷つかない。
彼が片手を上げると神の眼が鳴いてエネルギーの波が相殺した。
もちろんリオンもそれで済むとは思っていない。
すかさず走り込んで切り付けると司祭とは思えない強さでグレバムはそれを受け止める。
「何っ!?」
次の瞬間、風の晶術が巻き起こった。詠唱もなしで、だ。
ふいをつかれたリオンは避ける間もなく風の刃に巻き込まれていた。
「リオン!」
その背後から叫びつつもスタンが切りかかる。やはり結果は同じだ。
二度、三度と打ち合ったがにやりとグレバムが笑うとふいに見えない力にはばまれ弾けとんだ。
「あいつ……ソーディアンが使えるの!?」
「違う。神の眼から無理矢理力を引き出しているだけだ」
弓をつがえたまま打つ術もなく苦々しい表情のウッドロウ。
フィリアの晶術もエネルギーシールドの餌食だ。
ルーティは回復に専念するが、いつグレバムが攻勢に転じるかわからない。まとめて倒されては回復が間に合わないのは目に見えている。
遠巻くルーティたちの顔に早くも焦燥の色が浮かんだ。
しかし、神の眼の保護シールドは自発的なものではない。
それを発動する時、グレバムの気がそれていることに
は気づいていた。
それから、オーバーロード。
おそらく黙っていても起こる。だったら手が無いわけではない。
考えを巡らせている間にも戦闘は続いていた。
「ふ……人間とは小さな物よ……ソーディアンマスターでさえもこれしきの力とはな……」
「な……んだと……? お前は神にでもなったつもりかよ!?」
回復の終わらないままスタンが切り込んでも傷が深くなるだけだった。
一方、慎重になりはじめるリオン。
スタンとは真逆に次第にクールダウンの様子すら見せている。
彼の戦闘における冷静さは無意識だ。天才と呼ばれる由縁なのだろう。
スタンの戯れ言に耳を貸すグレバムに敢えて切り込まないのは、回復する間を確保するためだ。
「神、か……そう正に神だろう。私はお前たちとは違う。神の眼の力は絶対にして無限……!」
「所詮、威を借る狐だな」
とうとう
の口から失笑が漏れた。
自分の力でもないくせに三文芝居もいいところだ。
冷めた物言いにグレバムの視線が
に向いた。
「ウッドロウ、攻撃して」
「し、しかし神の眼のシールドは……」
「力は無限じゃない。……神の眼の力は絶大でも人間の耐えられる力なんて、たかが知れてる」
グレバムが自らを器として最強を自負しているならそこから崩せばいい。
真正面から視線を受けて、小声でウッドロウたちにそういうと
は神の眼へ、グレバムへと歩みを寄せた。
仲間たちの見守る中、まっすぐににらみ合う形になる。
先に口を開いたのはグレバムだった。
「ソーディアンも持たぬ小娘が。そんなに死を望むか」
「大司祭だったらお祈りの時間くらいくれるかな?」
「ふ……はははは! 言ってくれるではないか。お前のような奴は信仰心など持ち合わせていないと相場はきまっているものだ」
「だったら牙も隠す必要が無いね」
紫電を引き抜く。
ぎらりと冴えた刀身が神の眼のスパークを弾いて光を散らした。
「貴方が神なら、私は進んで弓を引こう」
た、と床を蹴る。やめろ! というリオンの制止があったが足は止めなかった。
微妙な物言いがウッドロウには伝わった。彼はすかさず豪列を放った。
眼中にすらなかった場所から弓の急襲を受けてグレバムの気が中空へと向く。
懐に飛び込む
。
振り上げる紫電は弓の雨を遮ろうとかざされたグレバムの腕を捕らえた。
「ぐ……貴様っ!」
浅い。
傷をつけることはできたものの、狙った急所は微弱なシールドにはじかれて無傷に近い。
振り切るようにグレバムが間近でイクティノスを一閃すると逃れる間もなく腹部に重い衝撃が走った。
「
!」
次に背中に鈍い衝撃があって、顔を上げればスタンが受け止めてくれていた。
風で吹っ飛ばされただけだ。傷はない。
リオンもすぐそばに居たので即座に立ち上がって傍による。
その間もウッドロウ、ルーティ、フィリアの遠隔攻撃が続いている。
「見たでしょう? シールドを分散させればどうってことはない。それから……討てないようであれば、消耗させてオーバーロードを引き起こす」
『!? 確かにそうなればグレバムという男の方が持たないだろうが……それだけでは済まないぞ!』
「いずれにせよ遅かれ早かれ、だな」
『……く……仕方あるまい……』
危険性を知るディムロスが危惧の声を上げたが、マスターたちが死んでからでは遅い。
リオンの冷静な声を聞いて、他の方法を模索するよりその時が訪れる方が早そうだと理解したのか低く応じる。
「そうなる前に、グレバムの方が崩れるよ」
その後はほぼ間違いなくオーバーロードするだろうけど。
そんなことは言えないしできればその前に仕留めて欲しい。
「スタン、僕がフォローに入る。お前は何も考えずにグレバムを狙え」
『!? いいんですか? 坊ちゃん』
「力だけならお前の方が上だ。信用してやる、行け!」
いつにない提案に一瞬呆気に取られたスタンだったがその言葉を聞いて強く頷いた。
「お前は銃で隙を狙え、間違っても近づくなよ」
それだけ言い残してリオンも後に続く。
勝機を捕らえて攻勢に転じた勝負はすぐに結末を迎えた。
グレバムに焦りと疲弊の色が浮かぶ。
晶術がシールドを相殺し、弓と銃撃が動きを封じた。最後の反撃もリオンがなぎ払いスタンの一撃が───
ついにグレバムを捕らえた。
「ぐあぁぁっ!」
袈裟懸けに斬られて大きく後ろに倒れ込む。
ドサリ、と重い音を立てたが、それもまもなく消えた。
まるで神の眼に吸収されるように。
「グレバム」という存在自体を支える命が弱まったせいだろう。
その体は、音も無く空気に溶けて跡形すら残ることを許されない。
そして、使い手を自ら消した神の眼は必然のようにオーバーロードを開始した
いつも運命が行く手を変えてくれれば、とは思っているがなかなかうまくはいかないものだ。
オーバーロードは開始した。
レンズの中央にたゆたう遊色が輝きを増して大きくうねったかと思うと激しい震撼がハイデルベルグ全体を襲う。
『やはり……起こるべくして起こったか……』
「落ち着き払っている場合か!? どうするんだよ!」
冷静に言ったディムロスに慌てたスタンの声がとぶ。
人が制御しようとしてもどうなるかは今、目の前でグレバムが実証してみせた。
はけ口をなくした力を一体どうすればいいというのか。
「お前こそ落ち着け。何の為のソーディアンだと思っている」
『でも、今の私たちでは破壊は不可能だわ』
『破壊はできなくても制御なら、できないことはないね』
冷静なアトワイトの声にも緊迫が走っていたが、シャルティエが見事に打ち消す。
自然、視線はリオンへと集まった。
「そういういことだ。お前たち、このディスクを装着させて四方に散れ!」
リオンの指示に従って神の眼を囲むように立つマスターたち。
一斉に掲げるとスパークが激しく飛び散ったが激震は徐々に収まっていった。
「ふぅ~……どうなることかと思ったよ。お前たちってこんなこともできるんだな」
独り言のように語り掛けるスタン、しかしそれに応えるものはいない。
「? おい、ディムロス?」
「残念だが、ソーディアンはしばらく眠りにつく。あれだけのものを押さえつけるんだ。ただで済む訳がないだろう?」
瞳を伏せたリオンにスタンは戸惑いの眼差しを泳がせる。
いきなり相棒が沈黙すれば誰でも心配だろう。反してルーティの振る舞いは明るい。
「しばらく休息が必要、ってことね。まぁ……一仕事したんだからそれもありよね。私たちもゆっくり休みたいものだわ。……超高級優遇で」
「……ヒューゴ様にでも掛け合え」
さりげに請求されて眉を顰めるリオン。
それから溜め息をついて
「そういう訳だから……無理に目覚めさせたりするなよ」
と付け足した。
あのディスクは神の眼を制御すると共にソーディアンの意識を強制的に閉ざすものだ。
それが、意図的な効果なのかそれともリオンの言うように仕方の無いことなのかはわからないが、神の眼の動向を見張るかのようなソーディアンは、彼らのこれからの行動を考えると眠っていてもらった方が不都合はいいのだろう。
シャルティエも沈黙してしまったのだろうか。
それが途端にただの剣になってしまったような気がして無性に寂しく思えた。
「リオン君、これからどうするのかね」
「神の眼をダリルシェイドに搬送する。グレバムの使った飛行竜を使えば手間も時間も省けるな」
「そうか、私もつれていってはもらえないだろうか」
「あんた……自分の国が大変だって時にくっついて来ていいわけ?」
ルーティの容赦ない物言いにもウッドロウは動じなかった。
「大変だからこそ、だよ。神の眼をこのままにしてはおけない。ファンダリアの王として同行願いたい」
「ふん、信用の無いことだな。いいだろう、その代わり兵を貸してくれ」
どんな意味が込められているのか一瞬だけ皮肉のような笑みがその顔を彩った。そしてリオンは交換条件を提示する。
とにかく神の眼を搬出しないことには。
やるべきことはまだ多い。
「お安い御用だ。さぁ、まだ落ち着いてはいられないぞ。……君たちも手伝ってくれるね」
「え~? あんまりこき使わないで欲しいわね」
「そんなこというなよ……もうちょっとなんだからさ」
「一息ついたらささやかながら、礼も用意させてもらおう」
「やるわ。きちんと事後処理するもの任務の内よね」
なんて現金な。
思わず苦笑をもらしつつ一行は時計台を後にする。
最後にフィリアが残って、ひとときの沈黙が訪れた。
「グレバム様……どうぞ安らかに」
小さな祈りが沈黙した時計台に響いて消えた。
各所に潜伏していたファンダリア兵はハイデルベルグが開放されたと知るや、自主的に参集した。
町にも賑わいが戻る。王を亡くしたことは大きな痛手だが、ウッドロウが戻ったこともあって城は歓喜の声で満たされた。
神の眼の搬出、飛行竜のチェック、グレバムに捕らえられていたクルーの開放。
リオンは、その騒ぎをよそに忙しく任務をこなしている。
一方で城内の雑事にあたっていたスタンたちは呑気なものだ。
「……リオンがあれほどキビキビ動いているのに私たちは何してるんだろうね……」
「いいんじゃないの? 手を出すな、って言うし。私たちは城内の点検も大方終わったから……あとはくつろぐだけよ」
飛行竜の見える部屋から、兵士に逐次指示を飛ばしているリオンの姿を遠くに
は溜め息を吐いた。
あぁいう姿を見ると「責任のあるポジション」であることをまざまざ考えさせられる。
今まで単独任務だったからこうしてみることも無かったが遠目に見ても大人顔負けの統率力だ。
まぁ大人だとか子供だとかは個人の能力には関係ないんだろうけど。
スタンも同じようなことを思ったのか少し寂しそうな顔をして言った。
「あいつって、いつもあんな所にいたんだな。オレだったら……めまぐるしくて何かくじけそう」
「大丈夫だよ、スタンは指示する側じゃなくてされる側だろうから」
冗談とも本気ともつかない
の真顔の発言にルーティがぷっ、と吹き出した。
「なんだよ~それはないだろ? オレだって仕官が夢なんだ!」
「……」
だったらリオンの仕事っぷりにめまぐるしいとか言ってること自体、挫折しかけている発言だと気づけ。
本気で呆れた瞬間。
甘すぎる。リオンの苦労は彼にはわかるまい。
「ふぅ」
「なんだよ、もう」
「
さん、さっきから溜め息ついてばかりですわね」
「そんなにあいつが傍にいないと落ち着かない?」
振り返るとルーティがにやにやと笑っていた。
「見えるところで忙しくされているから落ち着かない」
事実を的確に述べるとルーティはちょっとつまらなそうな顔をする。
あれがスタンでダラダラ動いていようものなら同情の余地はないだろう。
基本的に
とリオンの思考回路は似ている、とシャルティエがいたら思うかもしれない。
そんなことを話している内にリオンは飛行竜の中へ姿を消した。
「ほら、あんたも疲れたでしょ? ちょっとはゆっくりしなさいよ」
「してるよ、さっきから」
「甘いわね、堪能してないわ! こんなゴージャスな部屋でしかも贅沢三昧なんてもう二度とないかもしれないのよ!」
とルーティは沈みそうなほど柔らかいソファに倒れ込み、はしゃいだ。
金糸に銀糸、緑や赤の原色系が彩る調度品の細工は細やかだが、どうにもごちゃごちゃしていてこの中で毎日過ごすというには理解に苦しむ。
このゴージャスさは合理性というよりは芸術性の極みなのだろう。文字どおり贅沢だ。
もちろん見慣れていない今だから、それなりに面白くもある。
壁を支える柱とは別に所以のないところで白い柱に彫られた裸体像なんて、意味が分からなくてむしろ笑える。
城内の探索見回りの時もそういうものをみつけては感想を述べていると「あんた……それは楽しみ方が違うのよ」なんてつっこまれたりしたものだ。
フィリアは一緒になってまじめに意味を考えるのでこれがまた笑えたりするのだが。
「二度と無いなどといわずにいつでも来てくれたまえ」
ふいに降った低い声に、開きっぱなしの扉の方を見るとウッドロウが微笑ましそうに中を覗いていた。
「いつでも歓迎だよ。君たちはこのファンダリアの恩人でもあるのだからね」
「太っ腹ね! ウッドロウ!」
現れた城の主にルーティが笑顔のまま親指を立てた。
続くように女官がまだ湯気の立つのパイの載った皿を持ってくるとスタンが恐縮したように膝を揃える。
ちょうど小腹が空いた頃なので、甘いアップルパイが妙に美味しく感じた。
ふむ。一切れ口にして何やら思い付く。
そんな
に、ウッドロウが声をかけた。
「ところで君は、これからどうするつもりなんだ?」
「? どうして私なんです?」
「記憶喪失だと言っていたろう? この先はどうするつもりなんだい」
いきなりのご指名に首をかしげたがそう言われれば今後の身の振り方がまったく未定なのは
だけだ。
スタンたちも先ほどまでとは違うテンションで視線を向けてくる。
勘弁してくれ。
「さぁ? とりあえずダリルシェイドまではみんなと一緒に行きます」
さらりと応えるとまだスタンたちが神妙な顔をしているので心配するなと口を開きかけたが、それより先にウッドロウが微笑んだ。
「そうか……では、それが済んだら一緒にファンダリアへ来る気はないかね」
「………………………………………………。ありません」
どうしてこの人は遠回しに言うのだろうか。その言葉の意味を確認する前に
は断った。
「えっ? どうして? っていうか理由くらい聞きなさいよ」
他人事ながら気になったのか、ルーティが身を乗り出している。
こんな時でないならありがたい申し出だが、ファンダリアで地位を築いている場合ではない。
話が進まなそうなので九十九パーセントの義務感で聞いてみた。
「私がこの国へ来て……どうするんですか?」
「いや、行くあてがないというならこの城で働いてもらえたらと思ったのだよ」
だから何の仕事をさせるつもりかと聞いたのですが。
またもや遠回りな発言に機嫌が傾いた。
黙っているとようやく根本的なところへ触れる。
「君のような人がいてくれると心強い。グレバムとの戦いでは驚嘆したよ。剣の腕も悪くはない。……文官でも軍部でも、君なら十分やっていけるだろう。何か思い出すまででもかまわないから、考えてみてはくれないだろうか」
「ウッドロウさん、それって仕官のお誘いってやつですよね!? 凄いよ
! 王様直々そんな話なんて……!」
我が事のように喜ぶスタン。
聞いていなかったのか……?
私はもう既に断っているんだよ、スタン君…?
彼のせいでますますクールダウンしていく自分を感じる。
「ご逗留のお誘い感激の極みですが、他にやりたいことがあるので、謹んでご辞退申し上げます」
ビクリ。
聞きなれない言葉使いにスタンがなぜか硬直した。
「あんた……棒読みよ……」
ウッドロウも動じないところが凄いのだが。
しかしそれはそれで興味をひいてしまったようだった。
「そうか……それは残念だ。それでやりたいこととは何なのかな」
「……。語呂がいいから言ってみただけです」
沈黙────────。
「あんたって、ほんっとウッドロウには容赦無いわね」
なぜだろう。確かに彼を前にすると「遠慮無用」という言葉が浮かんでしょうがない。
いいところをつかれて思わず苦笑。
「まぁ……大人だから?」
「それは頼られているのか、嫌われているのか微妙な発言だね」
乾いた笑いが溜め息に変わると、
はパイを片手に「散歩へいく」と言い残して出ていった。
「ふられてしまったかな」
ウッドロウのめげない一言が残ったメンバーの苦笑を誘っていた。
空気が切れるように冷たい。
暖かいばかりの風の無い部屋に居たので心地よいほどだ。
城内から中庭へ出ると途端にこざっぱりとした光景が開けた。
白一色。余計なものがない。
雪の積もった庭園の中に黒い影を落とす飛行竜が停泊している。
その様は壮観だった。
傾いてきた淡い日差しの中、未だ慌ただしく行き交う人々とは別の方向から眺め見る。
「生体」なのだけれどやはり乗り物だけあって、あちこちに非常口のような経路があるのがわかった。
そちらからもメンテのクルーが時々顔を覗かしている。
外から見るだけのつもりだったが、予定変更して
は非常タラップへ足をかけた。
それでも大分、準備も落ち着いてきたのだろう。クルーたちの笑いさざめく様を眺めながら
は当て所もなく上へ向かう。
その途中から、デッキへ行こうという目的ができていた。
しかし。
「こんなところで何してる」
がっしと横の通路から出てきた手に肩をつかまれた。
歩く速度の速い
はそのまま後ろに引っ張られる形で振り返る。
「リオン」
意外に人の顔は見ていない。
T字の通路の角にリオンがいたことなど気づかず通りすがろうとしたところを止められた。
リオンの方は大分前から気づいていたらしい。その証拠に呆れた表情が浮かんでいた。
「何って……」
何も。
皆まで言わずとも伝わってしまう。
「リオンの方はまだ終わりそうも無い?」
「もう一息だ。後は任せておいてもいいんだがな……」
そう片手で書類を肩へ持ち上げるしぐさをした。
「そう。じゃあちょっとつきあってくれないかな」
「? なんだ」
「デッキに案内して♪」
「……」
眉を顰める。しかしそれは嫌というよりも何か厄介ごとでもあったような表情だった。
理由はすぐに判明した。
「いいだろう。メインデッキの昇降口はここからまっすぐに行って───」
場所の説明を始めたリオン。すかさず頭の中に地図を描く
。
ちょっと待て。
「で、右に曲がれば到着だ。ついでにその左手前にある部屋にいるカーターという男にこの書類を届けてくれ」
「リオン、私は「デッキに案内して」と言ったが「デッキを案内して」とは言ってない」
「今ので覚えただろ。人が使いを頼んでるんだ。無下に断るな」
確かにリオンにしては珍しく「届けろ」と命令調ではなかったさ。
でもその後の断るな、はいつもの命令形ということにもしっかり気づいている
。
複雑な顔をしたのは行く方向が一緒だったかららしい。
だったら出るべき道は知れたものだ。
「断る」
「……」
「自分で行けばいい」
「…………」
「さぁ、私が行かないなら早くいかないと」
にっこり笑うとリオンは諦めて歩き出した。もちろん
も後に続く。
デッキへ行くために。故にリオンも「着いてくるな」とは言えない。
程なくして昇降口へたどり着いてリオンはカーターのいる部屋へ入った。
手早く用件を済ませば
が待っている。
「……僕に用があるのか?」
「あぁ。実はリオンも探してたんだよね」
おまけのような言い方に呆れた顔が微妙に渋くなる。
その胸元に小さな紙袋が押し付けられた。
「? 何だ、これは」
「上で休みながら話そう」
ここまで来てはしょうがない。リオンはそれ以上反論する様子も無くデッキへあがる階段に向かった。
丁度夕暮れだ。
西の空が朱にそまっている。
淡い斜光の中、見晴らしのいい作業用の階段に腰をかけてリオンは遠くをみつめた。
「思ったとおり絶景──」
「飛行に入れば散々なほど見られるぞ」
「この雪原のこの夕焼けは、今この時しか見られないでしょ」
返事はせずに袋を開ける。
リオンの視線が中へと落ちた。
「それ、さっきウッドロウが皆に出してくれたんだけど……お茶をもらいに調理場に行ったら、出来立ての方もくれたよ」
中には先ほどのパイが入れられていた。幸いまださめていないようだ。
熱気で波立った紙袋を膝の上に大人しくリオンはパイを手に取って見た。
「丁度小腹も空く頃だろうと思って」
携帯用のポットから紅茶を注いで渡す。
準備の良いことに少し驚いた顔をしたが、受け取ると湯気の立つ暖かなお茶に口をつけてリオンは一息ついた。
黙ってどこか遠い瞳のままパイにもかじりつく。
疲れているようなのでそっとしておいて
も遠くへ視線を馳せた。
雪国の日暮れはあっという間だ。見る間にオレンジの空は闇の気配へと姿を変えていった。
「お前は……この後、どうするつもりなんだ」
思うところは特にないのだろう。
リオンの瞳は遠くを見たまま、藍色の空の残滓に透明な光を放っている。
なんとなく聞いてみた、それだけだ。
それを感じた
は一瞬、困った顔をした。
「それがねぇ……」
間(ま)。
「ウッドロウに告白された」
ごほっ
お茶を飲んでいたリオンは思わずせき込む。
「冗談に決まってるじゃないか」
「お前は時々冗談としてはありえないことを言うな」
それも真顔で。
そうして、冗談だと告げて反応があった後にようやく苦笑してみせる。
「本当のところは、ハイデルベルグに残らないかって言われた」
「……この街にか?」
それだけ言われれば告白と取れないことも無いので計り兼ねてリオンは聞き返した。
「記憶が無いから、何かわかるまで城で働いてみないかと……もちろん断ったけどね」
何を基準にもちろんというのかはわからない。
けれど安易に想像できる答えだったのでリオンは深く追求しなかった。
「それで?」
「とりあえず夢でもつくってみようかと」
「お前が? 夢だって?」
珍しくロマンのある物言いにリオンの顔にこれまた珍しく苦笑が浮かんだ。
失礼な。
沈黙で返すとリオンが横柄な口を利いてくれる。
「聞いてやるから言ってみろ」
「セインガルドに仕官すること」
再び沈黙。
にやりと
の唇が孤を描いた。
「……それは、スタンの夢だろうが」
読めない。詮索するつもりもなくリオンはただ溜め息をつく。だが、次に来たのは予想だにしない言葉で。
「じゃあ……現実問題をクリアするために……リオン、私を部下にしてみない?」
「……は?」
「ほら、会ったときにストレイライズ神殿で言ったでしょ。存外、お役立ちだよ?」
「お前が? 部下に?」
初めは意外そうに、それから呆れたような、いつもよりもどこか弱い笑みを浮かべたリオン。
「僕に絶対服従をするというのか?」
「しないね」
即答。
その様子にリオンはたたえた笑みを苦笑に変えただけだった。
「でも」
一度、遠くへ移した視線をリオンに戻す。
「忠誠だったら誓ってあげるよ?」
一瞬にして驚きの色が深い紫の瞳を占拠した。
からかっているような様子は無い。
だが、誰かに従うなど一見無縁な
の言葉に、笑みを消してリオンはそれでも何か言わずにいられなかった。
「お前の言っていることは滅茶苦茶だ」
「そう? 忠誠と服従することは違うでしょう」
例えばリオンが鋭い反感の根を抱えたままヒューゴに従っているように。
それは忠誠とは根本から異なるものだ。
それが伝わったのかリオンは言葉を失った。
「リオン、私は貴方を裏切らない。例え何があったとしても」
伝えられたのは強い意志。
何を根拠にそんなことがいえるのか。
これから起こるだろうことに、リオンは苦々しい気持ちがこみ上げてくるのを感じていた。
いっそ全て吐き出してしまおうか?
だが飲み込んだその言葉の代わりに出たのは、自らにも思いもよらない言葉で。
「信じるなどと酔狂だ。いつか、背後から刺されても知らんぞ」
飲み込んだ言葉の辛さだけむしろ辛辣なものだった。
自らの言葉に耐え切れなくなったように立ち上がり、見上げる
に視線を落とした。
それも一瞬だ。
リオンはすいっと視線を流すとそのまま足早に階段を下りてゆく。
冷たい風の中、背中を向けるリオンが振り返ることはなかった。