それは、
あるはずはない
共有する想い出
--ACT.11 新たな世界を <イレーヌ=レンブラント>
シュサイアは中継都市だ。言うなれば「通路」の役割をするくらいでこれといった特徴はない。
外見的には五層の細い通路から成り立ち、浮遊する五層のエリアをつなぐいくつかのエレベータを機軸に細い通路でつながりあっている。
とにかくヘルレイオスへ通じる出口に行くには下へ下へと降りていく必要がある。
はるか下層も見渡せるため移動は難しくなさそうだが問題なのは巡回する警備ユニットだった。
「あれだけのモンスターと戦わなければならないのか…」
ウッドロウも思わず唸ってしまうほど、それらの数は尋常ではなかった。
の知るところによれば100箇所に配備されているはずだ。もちろんそれら全てと戦う必要はない、が。
「巡回経路は単純で範囲があるみたいだね。そこに入らなければとりあえず見えても迎撃されない、か」
「でも、いつ攻撃されるかやっぱり不安ですわ…」
「先制攻撃でいくしかないかな」
ウッドロウも剣をつかえるが遠距離型のチームなのでできる限り遠くから狙えればそれで済ますことにする。
歩行型なら叩き落して済ますことも出来るが、浮遊タイプの機械が多く潜入と言うより撃破をする形で進むほかはなかった。
出口にたどり着くころには大きな怪我こそしないものの、精神的にはある意味満身創痍だった。
荒涼とした天上の大地には心を和ませてくれるものは何もない。
「ちょっときつかったか…な」
「すまない。イクティノスがあれば私ももう少しマシな戦い方ができるのだが」
もうひとつダンジョンがあるとはあまり考えたくない。
訪れたヘルレイオスは研究施設といった様相だった。
工場のようなエリアと研究棟がひとつの建物の中に分かれているようだ。
リトラーが言っていたハッチとやらもそこかしこに見えて研究機材や荷を降ろすためについているものと思われた。
「動力が完全に復旧しているようですわ…」
フィリアが無人のまま動き続けるベルトコンベアを眺めながら呟く。
動力の供給はいたるところで見られ、蛍光色の細い光が壁のラインを這っていた。
どこかしらの施設で発電されてから電力に変換されることはあるかもしれないが、これが全てレンズでまかなわれているとしたら物凄いことだ。
「復旧しているのはいいことなのだか悪いことなのだか」
行く手をふさぐ分厚い扉。剣ではもちろん切り抜けられない。明らかに電磁ロックのかかったシェルターのような扉をウッドロウは苦笑しながら見上げた。
動力が復旧していると言うことは室温などもそれなりに快適だが、セキュリティもそのまま生きていると言うことで…
扉の脇にはカードリーダの溝とキーコードを入力する装置がある。
それをまずは突破しなければならないようだった。
「カードは…先ほどみつけたもので良いのでしょうか」
途中、迷い込んだ小部屋でみつけたカードをフィリアがリーダに通す。リーダの脇に光っていた赤い光が緑の点滅に変わった。どうやらこれでよかったらし い。
「困ったなキーコードは…」
「…」
革命。
がタッチパネルを撫でるように片手の指を滑らせた。
『コード認証。封鎖解除します』
「!」
肉声に近いが人間のものとは思えない機械的な声が告げ、扉はその大きさからは想像が出来ないほど軽い動作で左右に開かれた。
その先に広がるのは、また、通路。
「
さん、そのコードはどこで…」
「まぁ…オベロン社にいたからね。それに、ずいぶんと「らしい」合言葉じゃない?」
もうキーコードの消えてしまった液晶画面を見ながらウッドロウは眉をひそめた。
「革命…?」
そう、彼等はまだ知らなかった。
ヒューゴがダイクロフトを復活させたことは脅威であり、彼らが天上にもうひとつの地上を作ろうとすることも明らかであるが、その本当の意図は誰も語っ ていなかった。語るべき当事者たちには、海底洞窟以来誰も会っていない。
いずれにしても知ったところで目的が変わるでもなく、リオンも余計なことは言わなかったなと
は思い返した。
沈黙の天上都市に靴音が響く。
「そっか、知らなかったんだね。そもそも彼等はどうしてダイクロフトを復活させようとしたと思う?」
ウッドロウとフィリアは顔を見合わせた。
考えたことがなかったわけではないだろう。しかし、目の前にある事実の方が大きくて答えは出ないままだったには違いない。
どうして、という想いを抱えたままオベロン社の人間に会うまでは進もうとしたはずだ。
首を振ったのはフィリアだった。
「彼らは世界を作り直そうとしてる。この歪んだ人間社会を壊してね」
「歪んだ社会を…?」
「失望してるんだよ。貧困、差別、自分勝手な人間たちに」
「そんな…!でも、わたくしたちの会ってきた彼等はそんな人たちでは…」
「じゃあ恐怖で世界を征服しようって人たちに見える?」
「それは…」
イレーヌ=レンブラントにバルック=ソングラム。少なくとも彼等は自らの身を削ってもそれらの問題をなくそうとしている人間だった。
事情のわからないウッドロウに
は手短に彼らの行いを話して聞かせた。
ノイシュタットの貧民街に手を差し伸べるイレーヌと排他的で荒廃したカルバレイスに基金を設け、援助するバルック。2人のオベロン社幹部の話を。
「そんな人々が…地上を見捨ててしまったと言うのか?」
「そういうことになるね」
強い理想を抱くものほど、挫折したときの反動は大きいのかもしれない。膝を折ってしまえば立ち上がれないほどに。そしてあきらめるより他の手段を持っ てでもどうにかしようと追い込まれるのもわからないでもなかった。
もっとも、ヒューゴに関してはそんな理由ではないのだが。
「でも…でしたら、お会いして説得すればきっと…!!」
「それはできない相談ね。私たちは、もう決めてしまったの」
「!」
かつん、とヒールが床をたたく音がして、先の通路から現れたのはイレーヌだった。
額を露にするように分けられた豊かにウェーブする桜色の前髪の合間に、暗い決意に彩られた顔がある。
歩調を緩めていた3人の足は、彼女の出現に阻まれるようにして止められた。
「イレーヌさん…」
「あなたは、そのやり方でノイシュタットの人々にも慕われていたそうだが、それでもなお選んだと言うのか」
それがイレーヌその人だと知って問いかけたのはウッドロウだった。
「そうよ。あなたたちこそ世界を廻って見てきたのでしょう?何も思うことはなかったの」
けれど逆に問いを返されただけだった。
一瞬の沈黙を縫って、イレーヌは踵を返す。
ゆっくりと、逃げるでもあせるでもなく靴音は誘うように通路の奥へと遠ざかろうとする。
顔を見合わせ、追うように進む羽目になるのも必然だった。
「私は戦争の愚を知っている。だから戦のない統治をする」
「大事なのは国じゃない。人の心」
追いながら背にかけたウッドロウの毅然とした言葉もその一言であえなくはじかれる。生まれながらの王であるウッドロウの言い分はあくまで王としての言 葉でしかなかった。
イレーヌは振り返りもせずに通路を進み、すぐに三部屋分もありそうなホールへとたどり着いた。
ホールは来客用というより作業用の倉庫といった感じだ。物はそれほど置いてないがクレーンやおそらく外へ通じるだろうハッチが見える。
それを確認して
はイレーヌがここで何かをしでかすだろうことに注意を払った。
入り口の通路から右手に折れるようにして幅広の浅い階段を上るその正面にもゲート。
ひときわ大きな扉は無機質なアルミ色で閉ざされ、脇の壁には遠目にロックと思しきパネルが見える。
イレーヌはそのロックの前に立つと扉に片手を添えるようにして階下にやってきた3人に…それとも自分にか、呟いた。
「疑いの心や憎悪の念、民衆差別や打算だけの親切。もうたくさんよ…」
額を扉につけるかとうな垂れたその時、振り返る。
「こんな世界、何もない状態からやりなおすしかないのよ!」
「そんな…そんなことありません」
フィリアが一歩前に出る。
組むようにして重ねられた両手はわずかに震えていた。
「だからといってそれが世界を壊していい理由になんかなりません。今のままで変えていかなければ…!」
「あなたたちに、それができるの」
「私たち、じゃありません。みなさんで変えていくんです」
「それは理想よ」
そして、それは確かに、イレーヌが抱いていたものでもあった。
「でも、イレーヌさんはそう考えていたんでしょう?」
の言葉にイレーヌの瞳が刹那、大きく見開かれた。その瞳を哀しげな色が彩るのを
は確かに見た。彼女の視線が
を認めると、なぜかイレーヌは寂しそうな微笑みをたたえて見せた。
「あなたは…リオン君と一緒に居たのよね…」
それが別の回顧をさせているのだと悟る。
「一度はオベロン社に居た身でしょう?なのにあなたもそう思うの?その理想が現実になると」
「私は…イレーヌさんほど人を綺麗には思えません」
そして彼女は再び、困惑したように瞳を揺らした。
「現実の人間なんて、そんなに美しいものじゃない。フィリアの言うように出来ていたら…きっとイレーヌさんはここにはいなかった」
「…」
その理想を抱いて、走ろうとしていたのは…他ならず救いたいという気持ちを抱いていたのは彼女ら自身なのだ。そういう人間が居ることも、そうでない人 間が居ることも、最も理解しているのは本人たちのはずだった。
「でも、中にはそんな世界でも救おうとしている人間もいるんですよ。スタンもリオンも、きっともうすぐここへ来ます」
「!リオン君が…生きているの!?」
それは素直な驚きであり喜びだった。あるいは、彼女の心を曇らせていた原因のひとつであったのかもしれない。
曲りなりながらも同志でありながら、目的のために犠牲になったはずのもののひとつであったのだから。
一瞬遅れて口元に笑みが浮かびかけたがそれもはたと気づいたように消し去ってイレーヌは白い壁の向こうを見上げた。
「そう、それじゃあれはスタン君たちなのね」
「何…?」
「今、その外壁をダイクロフトに所属しているはずの機体が周回しているわ。シールドがあるから入っては来られないんだけどね?」
どこか空虚な笑みを浮かべる彼女の手元に小さなリモコンが取り出される。沈黙した空間にキーを押す電子音がなんどか短く発せられた。
巨大なハッチが重い音を立てて開く。
気圧差で中の空気が一挙にハッチを介し、外へ吸い出される感覚が襲った。近くに居たら体ごともっていかれたかもしれない。
それがやや落ち着くのを待って
はハッチの脇の壁に手を添えるようにして空を見上げた。
その眼前を白い翼が掠め飛ぶ。
「!!」
一瞬だけ風が逆流して思わず腕で庇ったが、身を乗り出して見送るように確認できたのはエイのような姿をした浮遊クルーザーの後姿だった。
「着陸許可を出したわ。すぐに会えるわよ」
「どういうつもりで…っ」
「そんなの…きちんとあなたたちには話を聞いてもらわないと。二度も話すのは嫌だもの」
どこか困ったように微笑むその意図はつかめなかった。
ウッドロウとフィリアは何度か問答を繰り返し、バタバタとせわしない足音が聞こえたのはまもなくだった。
ハッチから
の姿を捉えていたなら場所も容易にわかるだろう。ウッドロウたちの会話にはそれ以上加わらず通路とホールの双方が見える位置で両方に目を配っていたその 姿をみつけたスタンが呼ぶ声がかかる。
「
!」
先頭を切って走ってきたスタンの顔には笑顔が浮かんでいた。おそらく、許可を下ろしたことで彼女らが目的地に到達できたと思っていたのだろう。
しかし、足を止めようとしてホールの奥へ視線を流したスタンの顔から、笑顔は消えた。
「イレーヌさん…?」
仲間の元にたどり着き、どこかほっとしたような表情を見せたリオンとルーティの顔にもそれで緊張が走った。
通路から駆け出て、同様に足を止める。
イレーヌはやってきた彼らを苦笑と共に迎えた。
「久しぶりね、スタン君。…リオン君も…無事で何よりだわ」
「イレーヌ…」
うめくようなリオンの声にイレーヌは再び微笑んだ。その視線はスタンとルーティを見る。
「イレーヌさん…どうして、こんな…!」
「スタン君、彼女は世界を救いたいそうだ。彼女たちの方法で」
「え…」
理解できないといった顔でスタンはウッドロウを見た。苦渋に満ちた表情でウッドロウは今、起きた話を端的に語って聞かせた。
言葉が進むたびにスタンの顔が消沈するように歪む、ルーティは険しい顔をして今しも何かを叫び出しそうだった。その隣でリオンはただ瞳を伏せている。
彼はバルックとイレーヌの忠誠の意味を知っていた。
「ヒューゴ様は必ず新しい世界を作ってくれるわ。差別や貧困のない新しい世界を」
「それでも…オレには信じられないよ、イレーヌさんがこんな方法を選ぶなんて!」
話を聞いたところでスタンが下がるはずはない。
スタンもノイシュタットの街でイレーヌのやり方を目の当たりにしている人間の1人なのだから。何よりも共感して心から応援の気持ちを抱いたのは他でも ないスタンだった。
そんなスタンにすら黙ってかぶりを振るイレーヌ。
俯いた唇が小さく「みんながあなたのような人間なら…」と動いたのをリオンは読み取っていた。
リオンが静かに歩み出た。
「ならイレーヌ。どうして遺書なんか残すんだ」
「…!」
「い、遺書?」
スタンが戸惑うように彼を見た。けれどリオンはまっすぐに彼女を見据えるだけ。
「世界を滅ぼすつもりなら、死に絶える地上に遺書など残さない。お前は、ヒューゴの野望が費えることを望んでいるのではないか」
「わ、私は…」
イレーヌの残した遺書、そして遺産。
リオンは彼女が遺書を残したことは知っていた。その内容までは定かでないにしろ、本来イレーヌ自身につきつけられることのない矛盾でもあった。
だからだろうか。その言葉は大きく彼女の心を揺さぶった。
表情が伺えないほどに俯いたイレーヌの手が胸の前で強く握られる。
リオンはイレーヌから返事がないのを待ってゆっくりと後を続けた。
「ヒューゴは天上の楽園など望んではいない。本当はもう、気づいているんじゃないのか」
直視できない過ち。
それが彼女の目前にある。
イレーヌの視線は、ハッチの向こう。
遠い空の下に広がるただ荒涼とした大地を撫でた。
「ねぇ、イレーヌさん。オレ、みんながイレーヌさんみたいになればいいと思うよ」
もうどうしようもない。
そんな彼女を見て小さく笑ったのはスタンだった。
彼女自身が先ほど呟いたのと同じことを言いながら。
「スタン君…私は…」
「だって、頑張ってきたんでしょう?ノイシュタットの人たちだってイレーヌさんのこと、慕ってた。少しずつでも良くなってると思うよ。オレ、ノイシュ タットの事よくわからないけど…」
わからないのに、よく言う。
しかし、そこまで言ってしまう所が彼らしいと言えば彼らしいのだろう。
「…でも…現実は違うのよ」
うちひしがれるようなイレーヌの声はいつのまにか気圧を逆転させて吹き込む乾いた風の音にまぎれて消えた。
「理想って言うのは、貫き通して初めて現実になるんじゃないのかな」
張り上げるでもない
の声は、確かにその耳に届いたようだった。
ただ理想だと捨ててしまえばそれは一生叶わない。
どんなにあがいても、いや、足掻くことすらやめてしまったのがその言葉なのだから。
だから、平和な世界など理想だという人間がいる限り平和になどならない。
けれど、その理想に賛同するものがいるならまだ救いもあるのかもしれない。
それだけのことだ。
はもう何も言わなかった。
その代わりに言ったのは
「きっと、良くなるよ。オレはみんなを信じる」
スタンだった。
その一言でもう彼女を支えるものはなくなっていた。
自分を支えていたものを手放してしまってから、ずっとそうだったのかもしれない。
イレーヌは両手で顔を覆い、扉の前にひざを折る。
「イレーヌさん…」
気遣うように集まった彼らに、涙で濡れた手でイレーヌはカードを差し出し、震える声で告げた。
「マスターキーよ。これがあれば、その扉も開くし、奥の施設も使えるわ」
「イレーヌさん…!」
理解を示してくれたことに仲間たちに喜びの色が浮かんだ。
スタンが受け取るとカードをリーダーに通し、扉は開かれる。
研究室への長い通路がこれまでとは違った装丁で彼らを迎え入れた。
『さぁ、早くイクティノスを復活させるのじゃ!』
強く頷きあって先に進もうとするスタンたち。
イレーヌはゆるゆると立ち上がってそれを見送るように立ち尽くす。
「イレーヌさん、待っててください。すぐに戻ります」
誰もが疑わないイレーヌの行動。
だけはそれをまだ喜んで受け入れてはいなかった。
遅れてついてきながらもちらちらと何度も振り返っている
に気づいてリオンが声をかけようとしたその時だった。
は足を止めた。
体ごと振り返り、次の瞬間今来た道をすばやくとってかえす。
「
!?」
一瞬遅れてリオンが、そして何が起こったのかわからないまま慌ててスタンたちもそれを追った。
スタンが扉の前に来たときに見たものは、開け放たれたままのハッチの前にたたずむイレーヌの姿と、ホールに下りてそちらに駆け寄る
、続くリオンの姿だった。
「良かったわね、リオン君」
外へとつながるハッチに背を向け、イレーヌは目の前に戻ってきた少年にそう微笑んだ。
「あなたはやっぱり、仲間の所に帰るべきだったのよ」
「イレーヌ…」
全てとはいえないけれどどこか儚く、満足そうな微笑み。
それはスタンたちにも等しく向けられる。
「あなたたちなら、ヒューゴ様とは違った形で新しい世界を作ってくれる。そんな気がするの」
そして、彼女は
自ら一歩後退し、天上の都市から我が身を躍らせた。
「イレーヌさん!!?」
スタンの声を背後に、その手をつかもうと飛び込もうとする
の体を抱えるようにして後ろに引き戻したのはリオンだった。
よろめいた反動と、とたんに脱力した
を支えきれずにハッチのすぐ手前の床に膝をつくことになる。
その後は何も聞こえず、風だけが乾いた音を立てて吹きぬけていった。
「…っ」
どうしようもない無力さにか、それとも目の前で人間が飛び降りたことにか
は小さく震えて瞳を伏せた。黒い前髪が表情を覆う。
その横に、スタンが走り込んできて両手両膝を床に落として遥か下方を愕然とみつめていた。
おそらくは、何も見えない。
外殻にしてもこの場所からは酷く低い位置にあるし、はりめぐらせた網の目の中へ落ちてしまえば見えるはずもなかった。
せめてならその方が、良かったのかもしれないが。
「そんな…どうして…どうしてだよ!!!」
スタンはグローブを酷く叩きつけて床に視線を落とす。その先を、やがてぱたぱたと雫が濡らした。
「イレーヌさん…っ」
冷たい床に伏せたスタンの口からとうとう嗚咽の声が漏れた。
ホールには、沈痛な沈黙が流れていた。
スタンは閉ざされたハッチに背中をあずけるようにして項垂れている。
フィリアもウッドロウも、ルーティも先に進み、イクティノスの修復を始めているはずだった。
意外にも、自ら残ってくれたリオンのついた小さなため息が密やかに沈黙を割った。
スタンは立ち上がろうとしないほどにショックを受けてしまっている。
お人よしならではの傷つき方だとリオンはもう一度、今度は深いため息をついた。
同じく残った
は、それでもそんなスタンを気遣う余裕は出来ていた。
言葉少なになっているもののリオンのため息にもきちんと反応して彼を見上げ、それから隣に座るスタンを見た。
「スタン…大丈夫?」
「…」
「女々しいぞ。仕方がないだろう、イレーヌは自分でそうしてしまったのだから」
「何が仕方ないんだよ!!!」
彼の行き場のない怒りはそうしてリオンに向けられてしまう。けれど自分のしていることにすぐ気づいたのかスタンはそれだけ言ってまた大人しくなった。
それから、おもむろに口を開く。
「なぁ…」
「なんだ」
「リオンと
は、今の世界、どう思ってるんだよ」
彼らしくない哲学的な問いに顔を見合わせ、先に答えたのはリオンだった。
「別に。好きというほど愛着を持ってはいなかったはずだがな」
お前も良く知っているだろう、と釘を刺されてスタンは押し黙る。
海底洞窟の戦いそのものが彼の選択だった。
「はず?」
けれど、他人事な返答の一方でその後の変化を示唆する言葉に
はくすりと大人しめに笑いながら首を小さく傾げてて彼を見上げた。
ふん、と取り合わずにリオンは顔をそむける。彼はこれ以上何かを言う気は無いようだった。
「
は?」
ちらりと伺うようにしてみせるすねたような視線がまるで子供のようだった。
両膝を抱えるような格好もそう思わせるのだろう。
「うーん、嫌い」
「え」
「でも…好き」
「は?」
今まで散々、彼女ならではのロジックに触れてきたがこれは最大に謎の発言だった。
リオンについて言えば人間が嫌い、という発言まではまぁ予想の範疇でもある。その後のフォローも含めて。
けれど、嫌いで好きと来たら一体どのように解釈するべきか。
思い切り眉をしかめて疑問符を挙げてみたところで当人の言葉を待つしかない。
「たくさん嫌なこともある。主にその原因になる嫌な人もいる。それこそ、死ね!って言いたくなるくらいのね。でも…好きな人もいるんだよ」
はそう、小さく笑った。
嫌なやつがいて失望するのが人間なら、本当に一握りの自分が認められる者のために強くなれるのも人間なのだろう。少なくとも、そういう人間がいるなら ば絶望するでもないという証明になる。
「それって世の中捨てたものじゃない、っていうことになるんじゃないのかな」
「…」
「お前だとてだからこそ世界を救いたいと思っているんだろうが」
「そんなんじゃないよ」
リオンに言われてスタンはようやく頑なに抱いていた腕をほどき、苦笑ながらも頬を緩めた。
「うまくいえないけどさ…ただ大切な人を守りたいから戦っているだけなんだ。
じっちゃんやリリスや……はは、なんだ。こう考えたらリオンと一緒なんだな」
「……っ」
思わぬところから切り返されてリオンはわずかに頬を高潮させた。
理解などされもしなかったはずの彼の根底に同調を示され、照れもあるのだろうが気まずそうな顔ではある。苦虫をつぶしたような顔、とも言う。
「あ、そういえばマリアンさんは」
「なぜ「そういえば」なんだ」
「ごめん、他意はない」
リオンのリアクションからこちら、少しだけ気楽そうに苦笑をもらしていたスタンの横で
が聞くと今度はむっとしたような声音が返ってくる。
が、彼自身の発言から連想して思い出したのかどうかは謎である。
しかしながら
は
で開口一番のリオンの発言から彼女が無事であろうことは推察できた。
「無事だった。脱出ポッドを使って先に地上へ戻ってもらった」
「…オレ、脱出ポッドでいい思い出がないから不安なんだけど…」
『だからあれは元々壊れていたのだ。普通に使えば大丈夫だ!』
「お前ら、不吉な会話をするな!!」
ようやくディムロスが口を開いたかと思えばリオンにしかりつけられている。
スタンはディムロスに出会った際、飛行竜を襲撃されて脱出ポッドで事故ってウッドロウに助けられた経歴がある。
「大丈夫だよ、そんなに心配しなくても…」
「べ、別にそういう心配をしているわけでは…」
ふっと笑って今度は自分がひざの上に組んだ腕に頬を乗せると珍しく動揺した声が振ってくる。さらに笑いたくなる気分で
は顔を腕にうずめる。
合流した安堵からか、シュサイアでの連戦の余波がどっと出てきてしまったのか妙に疲れてしまった。
「だけど、レンブラントさんが…死んじゃったんだ」
あぁ、それでスタンはイレーヌの死に耐えられなかったのだ。
続けて見知った人間が命を投げ打ち、死んでいく。それは辛いことだろう。
スタンはまた、いつになく大人しい子供のように瞳を寂しそうに伏せた。
「だが、まだバルックが残っている」
「…どうして、そんなふうに命を捨てようとするんだろうなぁ」
「…捨てるんじゃない。自分の決めた道を進んでいるだけだ」
リオンの言葉はせめてもの手向けだった。
イレーヌもバルックもレンブラントも、自分の信じるもののために、道を全うした。
たとえ間違っていたのだとしても…おそらくはそれだけなのだ。
* * *
いつのまにかうとうとしてしまっていた。
は顔を上げて静まり返ってしまったホールを見た。
隣には、立ったまま壁に背中を預けて何事かを考えているリオンの姿があった。
を真ん中にしてその反対には床に転がって寝ているスタンの姿。
「…なんか、嫌だな」
スタンと同等の図太さで寝入った気分になるから不思議だ。
けれど、おそらくはじめは
と同じようにうずくまったまま眠っていたが、いつのまにか転がったのだろうその構図がスタンらしいといえばスタンらしい。
それでもってそれをそのままにしておくところがまたリオンらしいなどと余計なことまで思考を飛ばしてしまう
。
「こちらのチームは、何事もなかったのか」
後ろから当の本人に声をかけられなぜかぎくりとしてしまう。
「え?あぁ、そうだね…これといっては…でもシュサイアがガードロボットだらけで参った。多分ロディオンより5割増しは多かったと思うよ」
「策士 策に溺れたな」
「二の句もないけど、間違ってもいなかったと思う」
どこが二の句もないのだ。
呆れたようにリオンはばっちり選択の正当性を主張する
を見下ろしている。
ふと
も見上げ、いつのまにかその視線がただじっとみつめるものに変わっていることに気がついた。
「何?」
「…」
黙して何も語らず。リオンはそれをよく実践する。
視線は雄弁であるくせに。
雄弁なのだが今は夜の海のように静か過ぎて今回に限ってはよくわからなかった。
「…?」
訝しがりながらも、いつまでも見詰め合ってても何なので先にドロップアウトしたのは
だった。
それから互いに物思いのための沈黙がしばらく続いて、
「イレーヌは…こうなることを望んでいたんだろうな」
おもむろに、リオンが口を開いた。
再び見上げれば、瞳を伏せじっと床を見つめているリオン。
否、おそらく見ているのはもっと遠くだ。
「…あの遺言は、今の彼女の姿とは真逆にあるものだった。もっと、理想だとか希望だとかが込められたものだったはずだ」
「リオンは中身を見せてもらってたの?」
「『これを読む、未来の誰かへ』」
「!」
驚きに見開いた
の瞳をリオンのそれがゆるやかに振り返り、捉える。
それは、この時代には誰の目にも触れていないはずの、そうおそらくは彼自身も知らないはずの言葉だった。
オベロン社坑道の、奥深くに封じられているはずのイレーヌ=レンブラントの遺産。
遺言書に記されているのはおそらくその場所だけで、本当の彼女の遺言は…遺された意志はそこにある。
見上げる
の瞳が刹那、何かにおののくように揺れた。
「…前に言ったはずだ。『もう金輪際こういうことはするな』と」
「…」
それからまた話が一転する。
それが何を指しているのか…
が記憶と照合させるには時間がかかった。
「こういうことって?」
当たりがついてから確かめる。
「勝手なことだ」
例えば、此度で言うならば勝手に気を利かせて、パーティをふたつに分ける、など。
例えば、仲間に相談もしないでソーディアンの被験者に手を挙げる、など。
それは、雪降る灰色の世界で交わしたささやかな約束。
『ジューダス』と共有する記憶──…
「嫌だな、それフォルトゥナと戦うまで、って言ったじゃない」
苦笑のような、嬉しさの滲む面持ちで振り仰ぐ、その先にある視線は
を捉えてはいない。
けれど物静かな視線は記憶の中にあるジューダスのそれと重なった。
「…時効だよ」
もう一度、
は自らの腕に顔をうずめ、リオンはただ目の前にわだかまる沈黙の空間を遠くみつめていた。
